広岡村(読み)ひろおかむら

日本歴史地名大系 「広岡村」の解説

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]鳥取市広岡

船木ふなき村の南に位置する。若桜わかさ往来が通る。寛文大図(倉田八幡宮蔵)に「平岡と云、心ハ春日四所明神之事、香取平岡と付シ、今誤テ広岡と云」と記されており、もとは平岡と記していたものと考えられる。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には「ミツヲンジ谷」「ニシヤ谷」「富沢谷」のそれぞれに灌漑用溜池が描かれている。拝領高は二三八石余、本免は五ツ七分。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]奈義町広岡

中島なかしま村の北、名義なぎ(随泉寺川)沿いに立地し、川上は是宗こりむね村、川下は荒内あらうち村。条里遺構がわずかに残り、「和名抄」記載の勝田郡広岡郷の遺称地。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚氏の檀那村付帳(肥塚家文書)に東美作国の内「とよたひろおか村」とみえる。年未詳であるが同社社家の林家長の檀那村書(同文書)には「ひろおか村 宿ハ ふくもと しんゑもん」とある。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]木造町越水こしみず

屏風山びようぶさん砂丘の東南部末端に位置する。田圃を隔てて北に越水村、東に盛照せいしよう村、南に広岡溜池がある。

貞享四年(一六八七)検地帳莇岡あざみおか村の支村と記され、田畑屋敷合せて二六町二反四畝一四歩、村高一三一・六七三石とある。うち田方は一七町八反四畝二七歩で一一三・四五三石、中田がなく上・下・下々田と設定され、下田が一一町四反一九歩、七九・八四四石とあり、畑方は八町三反九畝一七歩で一八・二二石、上畑がなく中・下・下々畑のうち下畑と下々畑が七町八反余を占め、下々畑が四町三反四畝一六歩、四・三四五石とある。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]門前町広岡

たち村の南、山地と丘陵に立地。中世は櫛比くしひ諸岡もろおか村の内。応永六年(一三九九)六月日の総持寺寺領目録(総持寺文書)に「広岡」とみえ、櫛比庄預所前対馬守鴨為永が広岡の内一〇〇刈を同寺鎮守白山の造営料として寄進している。天文二〇年(一五五一)六月三日の櫛比庄諸岡村名散田指出(興臨院文書)によると、兵衛・右馬・三郎兵衛・大郎五郎らが作職をもつ二四三束余の地があり、年貢銭は四貫六九文であった。正保郷帳では高一〇七石余、田方三町二反余・畑方三町九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一〇七石余、免五ツ三歩(能登奥両郡収納帳)

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]宍喰町広岡

角坂かくさか村の北に位置し、日比宇ひびう川が南流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「ひろ岡村」と記される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では宍喰浦の枝村として「広岡」とみえる。「阿波志」に広岡(「広園」ともあるのは誤記か)とあり、高七八石余で、家数一九・人数六六。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では広岡村とあり、高八八石余。文化九年(一八一二)の棟付帳(宍喰町誌)では家数二四のうち無役人一・百姓二一・部屋一など、人数九三。同一〇年の高都帳に村名がみえ、高八七石余。天保郷帳では記載がない。文政一二年(一八二九)の異国船漂流に際して当村の鉄砲打七人が出役している(天保四年「鉄砲打人夫賃銀等割付帳写」御大典記念民政資料)

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]桜村上広岡かみひろおか下広岡しもひろおか

台地上に位置し、村の南端を花室はなむろ川が流れる。西は大角豆ささぎ村。江戸初期は土浦藩領・麻生藩領に分割され、「寛文朱印留」にそれぞれ「広岡村之内」と記される。その後全村が土浦藩領となった。元禄郷帳の村高は四〇四石余。時期は不明であるが、上広岡村・下広岡村の二村に分れ(新編常陸国誌)、「県方集覧」(酒井泉氏蔵)によれば、上広岡村は村高二〇七・〇七九石、「文禄三午検地、御領主不知、家数三拾三軒、人数弐百七人、馬数拾五疋」とあり、下広岡村は村高一九七・六〇一石、「文禄検地高百五拾三石弐斗五升ヲ朽木様御代慶安三寅地詰有之、四拾四石弐斗八升壱合、出高但州(土屋)様御代寛文八申改出壱斗弐升八合、寛文九戊年御代官所坪井次郎右衛門様ヨリ本高御給如此之由、家数弐拾軒、人数百三拾壱人、馬拾疋、享保中改」とある。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]細江町広岡

都田みやこだ川とその支流井伊谷いいのや川の合流点北側に位置し、西の井伊谷川対岸は気賀けが村。井ノ小野村などとも記される(「遠淡海地志」など)。鎌倉期にみえる弘岡ひろおか郷は当地に比定される。弘安二年(一二七九)一月二八日、伊勢神宮の内宮が「小刑御厨弘岡郷」作人の上分・給主分未納を責め、納入に応じないようであれば作手職(耕作権)を取上げると伝えている(「伊勢内宮庁宣」文永三年御遷宮沙汰文)

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]玉野市広岡

木目もくめ村の南に位置する。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では田畠高二七二石余、寛永備前国絵図では高二四三石余。享保六年(一七二一)の田畠一五町七反余、家数五七・人数三七五(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高二四三石余、直高三八八石余で池田和泉の給地、田一〇町四反余・畑四町八反余、池五・樋一八・井戸五、家数七二・人数三二三、牛四三、猟師鉄砲一、紺屋三軒、桶屋二がいる。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]東予市広岡

周桑しゆうそう平野の西山麓、大明神だいみようじん川の中流右岸に位置する。

村の北東にある上市かみいち村から分村したもので、天保郷帳にも村名がみえない。しかし分村はかなり年代をさかのぼるらしく、すでに享保一七年(一七三二)の「桑村郡大手鑑」に広岡村の名がみえ、末尾に「寛文七未年広岡村は上市村より分ルと申伝」と記してある。村高は三三八石七斗二合、田畑三三町一反六畝、うち田方二〇町二反八畝、畑方一二町八反八畝、新田一町五反三畝一七歩、新畑一反二畝五歩。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]奈良市広岡町

白砂しらすな川流域にあり、北東西の三方を山城国相楽そうらく南笠置みなみかさぎ(現京都府相楽郡笠置町)に囲まれる。「続日本紀」によれば、天応元年(七八一)に没した光仁天皇は、翌年「葬於広岡山陵」とあり、延暦五年(七八六)田原東たわらひがし陵に改葬された。

広岡村
ひろおかむら

[現在地名]大飯町広岡

東は万願寺まんがんじ村、南は佐分利さぶり川を挟んで神崎こうざき村。正保郷帳によれば田方一七八石余・畠方九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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