平野町(読み)ひらのちよう

日本歴史地名大系 「平野町」の解説

平野町
ひらのちよう

[現在地名]江東区深川一丁目

二之橋にのはし通に面した町屋。深川築地二四ヵ町の一。深川平野ふかがわひらの町とも称した。北は万年まんねん町二丁目・三河西尾藩松平(大給)家下屋敷、西は富久とみひさ町、南から東にかけてはあぶら堀や陽岳ようがく寺・法乗ほうじよう院・玄信げんしん寺などの寺町。間に万年町三丁目を挟む。

文政町方書上によると、元来は元木場もときばの一部で神田久右衛門かんだきゆうえもん(現千代田区)材木問屋の木置場があった。町域は元禄一四年(一七〇一)拝領町屋敷・拝領地などとなり、残りの土地は同年六月から翌年の八月までに檜物ひもの町一丁目(現中央区)の大黒屋忠兵衛、南茅場みなみかやば(現同上)の久下田屋吉右衛門、南塗師みなみぬし(現同上)の孫兵衛、深川八幡前房州屋諸治兵衛の四人が買請けて町屋となった。

平野町
ひらのちよう

下京区新町通正面下ル

南北に通る新町しんまち通(旧町尻まちじり小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京七条三坊二保三町東側と六町西側の地。西本願寺寺内町が開かれて以来の古町の一。寺内九町組のうち艮組に所属。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図及び天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には「新町三丁目」とあり、寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「三町目」とのみ記される。現町名への改称年代は不明であるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には現町名「平野町」がみえる。町名由来は不詳。毎年一一月の御法事の際、他町よりも多く提灯二張(一張につき五五〇文の代銭納)を献上している(「寺内歳時記」村上文治家文書)

平野町
ひらのちよう

[現在地名]岡山市天瀬南町あませみなみまち

外堀の南に位置する郭外商業地域の町で、南北の道を挟む両側町。東は道を隔てあぶら町・上内田かみうちだ町、南は道を隔て藤野ふじの町、西は児島こじま町、北は油町・紺屋こんや町。寛永城下絵図には町名の記載はなく、慶安城下絵図では「喜右衛門町」とみえる。延宝二年(一六七四)御触留(国富文書)に平野町とみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は五反余で、徳米七石余・口米一斗余。近世初期の区分は外町(市政提要)、中期以降は下組の外町(岡山市史)。「吉備温故秘録」に「東側三四間半、西側六四間」、「備陽国誌」に商船がありとみえる。

平野町
ひらのちよう

大手おおて筋と新町しんまち通から西へ二筋目の南北路が交差してできる十字路の南西部にある町。

「豊公伏見城ノ図」では、平野遠江守の屋敷地で、山城国伏見街衢並近郊図でも「平野丹波守」屋敷地の記入があり、平野氏とのつながりが長かったようで、町名もこれに由来すると考えられる。

「新市域各町誌」は「安政時代には大手筋角に髪結床があり、南へ民家十九戸あったのみで、町中央に西裏の空地へ通路があり、此空地には北寄に稲荷祠、西寄に妙見堂、南寄に御香宮守護札納所が点在し、納札所前には北向に芝居小屋があった。天保年間、伏見奉行内藤豊後守は、荒地開発、土地繁栄のため、この低湿の空閑地を御救ひ土地とし、新規開業の権利を附与したので、中村藤四郎は天保十二年三月、此地を拓き茶問屋を許された」と江戸後期の町の様相を記す。

平野町
ひらのまち

[現在地名]姫路市平野町・坂田町さかたまち元塩町もとしおまち

姫路城南東の外曲輪に位置する町人町元塩町の東から中堀に沿って北に延びる町筋。北は東魚ひがしうお町で東は坂田町。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。飾東しきとう平野村からの移住者による町という(大正八年刊「姫路市史」)。中堀を隔てて西側にある播磨国惣社(射楯兵主神社)と同村の関係は深く(→平野村、当地に平野村民が移住したことも関係がありそうである。

平野町
ひらのまち

[現在地名]金沢市城南じようなん二丁目

角場川岸かくばかわぎし町の南東、鞍月くらつき用水を隔てた所にあり、用水に沿って犀川の鞍月用水取入口に至り、犀川に沿って下り町端に至る。北東は富山とやま町。文政六年(一八二三)川上新かわかみしん町から分立した地子町(町奉行より出候町名)

平野町
ひらのまち

[現在地名]新南陽市大字富田

和名抄」に平野郷、「延喜式」(兵部省)に山陽道の駅として平野とある地の遺名とされ、早くから山陽道の要所として栄えたらしいが、中世は海上交通が盛んとなり一時衰退したらしい。近世になると古市ふるいちに次ぐ湊として再び重要な位置を占めた。それはこの付近に瓦製造業が起こったからで、その燃料の陸揚げや積出しの湊として発展し、古市湊の衰退とともに廻船業なども大いに発展をみた。

町はしん町の西にあり、元和八年(一六二二)の富田保打渡坪付(徳山毛利家文書)には平野は地方屋敷二二軒としか記されないが、寛保元年(一七四一)の徳山藩御領内町方目安(同文書)には、町の長さ東西二町五間一尺、道幅二間四尺、家数八九(瓦屋二、板屋一、茅屋八六)、うち北側五〇、南側三九、ほかに土蔵一がある。

平野町
ひらのまち

道修町どしようまち通の南に東西に延びる平野町通の両側町。東の一丁目から三丁目まであって、東は東横堀ひがしよこぼり川平野橋西詰、西端は心斎橋しんさいばし筋。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図によると古くは難波橋なにわばし筋から東を東平野ひがしひらの町、西を西平野町といった。延宝七年(一六七九)両町とも大町であるため町の願いで一―三丁目に分割された(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)

平野町
ひらのちよう

[現在地名]大和郡山市九条平野くじようひらの

外町一三町のうちで、年貢地。郡山藩旧記に

<資料は省略されています>

とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報