平野庄(読み)ひらののしよう

日本歴史地名大系 「平野庄」の解説

平野庄
ひらののしよう

現神戸町一帯および揖斐いび大野おおの町南端に比定される庄園で、北西部は山城石清水いわしみず八幡宮領泉江いずみえ(現揖斐郡池田町)、南部は伊勢神宮領中河なかがわ御厨(現大垣市)に隣接していたらしい。比叡山延暦寺領で、神戸町と大野町との間を流れる揖斐川には、当庄の名をとどめる平野荘橋が架かる。嘉保二年(一〇九五)美濃国に下向して庄園の沙汰をした天台下僧らが、非道を行ったため、国司源義綱は宣旨を被って悪僧らと合戦している(「中右記」同年一〇月二三日条)。嘉承元年(一一〇六)には山僧の乱行に手を焼いた国主が辞任しており、これらの事件は美濃国内の庄園拡張をめぐって、比叡山の僧らが活発に動いていたことを物語るもので(岐阜県史)、当庄の成立と関係があるとする説もある。

平野庄
ひらののしよう

明石川中流域に展開する庄園で、庄内南北三木に向かう道が通り明石・三木の中間に位置する。暦仁元年(一二三八)一二月一四日、太政大臣九条良平は平野庄を成恩院(九条坊門)に寄進している(門葉記)。正和五年(一三一六)当庄領家内大臣洞院実泰の訴えにより、守護代糟屋弥次郎に長浜六郎入道とともに国中の地頭御家人を相催し、当庄に乱入する悪党を鎮め身柄を拘束することなどが命じられた(同年七月一三日「六波羅探題御教書案」東大寺文書)。この悪党とは円了法師祐真(奈良東大寺領大部庄鹿野村地頭代白井八郎定胤の家人であり、海賊張本の田那部入道行蓮の縁者)・長尾備前房(大部庄坂部村所務代官)・太郎左衛門入道円心(明石郡下端庄住人)らであった(元亨二年九月日「大部庄悪党交名注文案」同文書)

平野庄
ひらののしよう

鎌倉時代、但馬国にあった比叡山延暦寺領庄園。「天台座主記」最仁親王文永元年(一二六四)八月一一日条に、「両堂造営事、法眼政尊、以但馬国平野庄神人奉行力、致其沙汰、堂宇半作、雖功、念仏以前所本尊也」とみえる。当庄は文永元年七月一九日に上棟された延暦寺東塔の法華堂常行堂(両堂)の造営費を負担し、庄内には神人が居住していたことが判明する。

平野庄
ひらののしよう

現大野城市南部、牛頸うしくび川上流に所在したと考えられる庄園。天文一五年(一五四六)四月五日の大村興景譲状(常栄寺文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)に「三笠郡平野庄」にある一所一八石足がみえ、同所は天文五年に観世音寺(現太宰府市)愁訴により大宰大弐大内氏から同寺に寄進されており、その後同氏から早良郡代大村興景へ代所を与えることが約束されていた。庄内には平野社(現牛頸三丁目の平野神社に比定される)があり、天文一三年八月七日の大府宣(観世音寺文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)によれば、「平野社敷地廿五町」が大内義隆により観世音寺執行領として胆に安堵されており、同寺と関係が深かったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報