日吉神社(読み)ヒヨシジンジャ

デジタル大辞泉 「日吉神社」の意味・読み・例文・類語

ひよし‐じんじゃ【日吉神社】

日吉大社ひよしたいしゃ

ひえ‐じんじゃ【日吉神社】

日吉ひよし大社の旧称。

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精選版 日本国語大辞典 「日吉神社」の意味・読み・例文・類語

ひえ‐じんじゃ【日吉神社】

滋賀県大津市坂本にある日吉(ひよし)大社の旧称。また、日吉大社を本祠として全国各地に分祀された神社。その数は三千八百余を数える。

ひよし‐じんじゃ【日吉神社】

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日本歴史地名大系 「日吉神社」の解説

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]庄原市山内町

国兼くにかね川南岸の竹花たけはな山に鎮座。山王さんのう社ともいう。祭神は大己貴命を主神に相殿の神二一座。旧村社。

貞観元年(八五九)近江の人安部幣高が国兼川北方の葛城かつらぎ山に近江の日吉社を勧請。嘉暦年間(一三二六―二九)葛城刑部永義なる者が現在地に移し、跡地に葛城城を築いたと伝える(芸藩通志)。鎮座地一帯は比叡山延暦寺領泉田いずみだ庄に属したので、その荘園鎮守社として日吉社を勧請したものと思われる。泉田庄の北に接するじび庄の地頭山内氏は、応仁の乱前後の混乱に乗じ竹花山の日吉神社裏手(西)むこう城を構え、泉田庄への他勢力の侵入を断ち、ついに延徳四年(一四九二)泉田庄代官職を得た。山内氏は当社の保護につとめ、山内隆通は永禄七年(一五六四)本社・末社・経堂・舞殿・鳥居を建立し、神田七反余を寄進した(「山王権現縁起」横路家文書)

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]高月町井口

井口いのくち集落の中央に鎮座する。祭神は大山咋おおやまくい命。延暦寺領富永とみなが荘の守護神として近江日吉社の分霊を勧請し奉祀したもので、新日吉いまひえ・井口山王権現とも称された。社伝によれば、文永七年(一二七〇)蒲生がもう郡渡江淵に大蛇が出現して夜ごと人を害したので、近江守護佐々木頼綱とその一族東条経方がこれを射殺。翌八年近江国の大旱魃時、大蛇の霊を祀れば潤雨ありという夢告により頼綱は国中の井頭に神霊(井口大明神)を祀らせた。当社はその一つで、経方に守護させ、子孫は井口姓を称したという。井口を守護するため当社を創立した由来を暗示している。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]新穂村上新穂

新穂町寄りにある。祭神大山咋神・大物主神。ほかに下新穂しもにいぼの八幡宮と北方きたがたの諏訪神社を合祀。佐渡配流の順徳上皇の随臣池清範が近江国坂本さかもとの日枝社を勧請と伝えるが、近江国坂本の日吉神社領として「日吉神社々領注進記」の元応元年(一三一九)一〇月日日吉社々領注進状に現れる新穂庄に関連して勧請されたとする説がある。山王七社と称する社の筆頭で、当社には大宮と北方の山王(二宮)が明治九年(一八七六)に合祀されている。他の五社は大野おおのの日吉神社(客人・三の宮を祀る)舟下ふなしもの日吉神社(聖真子・十禅師を祀る)井内いないの日吉神社(八王子権現を祀る)である。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]亀岡市河原林町河原尻

河原尻かわらじ集落中央部の北に鎮座し、旧社名は日吉山王大権現。祭神は大山咋命。河原尻の氏神。旧村社。

社伝によれば、嘉吉三年(一四四三)近江坂本さかもと(現滋賀県大津市)の日吉大社の分霊を勧請(再勧請ともいうが不詳)し、同年一二月二七日社殿が造立された。河原尻の草分けと伝える中野氏が勧請したと思われる。「丹波志桑田記」に

<資料は省略されています>

とあり、天文―永禄(一五三二―七〇)頃から五苗ごみようによる氏神・村中支配が始められたという。

文禄五年(一五九六)の大地震で社殿倒壊、翌年社殿再建。その時の棟札写(遠山家蔵)に年行事一六名が記されるが、全員五苗で占められ、この時すでに五苗による氏神支配が確立されていたことが知られる。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]淀江町西原

通称はまに鎮座し、境内をJR山陰本線が東西に通り抜ける。旧郷社で、祭神は大己貴命・少彦名命・天之佐奈神ほか一三神。山王宮・淀江宮・佐奈さなめ宮などのほか、近世には郡中大社・宇多川庄大社などと称された。「三代実録」貞観一六年(八七四)七月二日条によれば、伯耆国「天乃佐奈神」が従五位下に進階しており、古くは同神を祀る神社であったと推定されている。平安時代末から中世にかけては、当地一帯に宇多河うだがわ庄が成立し、当社に同庄の鎮守として山王権現が勧請されたと考えられる。大永四年(一五二四)五月尼子経久の大軍が伯耆に侵入した際、社殿が兵火により焼失したが、京都から淀江に転住した足利義政の庶子といわれる谷若狭守成安が再建したという(「日吉神社縁起書」社蔵文書)

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]宮津市字岩ヶ鼻

いわはな海岸近くの台地の尾に鎮座。近世には山王社と称したが、明治二年(一八六九)現社号となった。祭神大山咋命。旧村社。

江州坂本日吉さかもとひえ神社(現滋賀県大津市)から勧請したと伝え、もとは北西のたににあったが、天文一八年(一五四九)一一月に隣村の外垣とのがきにあった木積きづみ神社と合祀して現在地に移したという。

社蔵の天文一八年在銘の棟札には「奉造立伊禰山王社御遷宮時御百姓中官途之人数」に「権守」の支配する村として日出ひで村・平田ひらた村・高梨たかなし(現与謝郡伊根町)のほか現宮津市の大島・野田などが記される。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]能代市御指南町

能代町の東端にあり、山王社とも称す。祭神大物主神・大山咋神・豊受姫神等。旧県社。

元禄一四年(一七〇一)の山本郡野代鎮守山王社之覚(渟城家文書)に「山王本社七尺四方 金松山鳳来寺 社地五拾間、勧請年紀不知、縁起古棟札什物も無御座候、再興寛文四年」とある。また野代山王社由来記に「天文二年、清水治郎左衛門政吉、村長を務められしに、夢の告にありて、日山ひやま城主尋季公へ訴へ、山王権現を勧請し、姥懐の東北、川中島の八幡社の側に一宇を造立す」とあり、同書によれば山王社は天文二年(一五三三)米代川の中島に創立され、弘治年間(一五五五―五八)小館塙おだてばな、永禄年間(一五五八―七〇)日和ひより(→山王御旅所跡、文禄年間(一五九二―九六)盤若はんにや山、寛永年間(一六二四―四四)現在地に移ったことになる。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]宮津市字宮町

滝上たきがみ山山麓通称まつおかにあって神仏分離令以前は山王社と称した。祭神は大山咋命・大己貴命。古く近江坂本さかもと(現滋賀県大津市)より勧請したと伝える(宮津府志)。江戸時代には歴代宮津藩主の崇敬を受け、宮津郷の惣産土神であったという。旧郷社。

社殿については変遷がある。京極高広時代の正保四年(一六四七)に社殿を下の段(現在神主家敷地)に移して、その跡に別荘をつくった。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]水口町三大寺

西にし飼戸かいとに鎮座する。旧郷社。祭神は大山咋おおやまくい命・大山祇おおやまつみ命。社伝によれば白雉年間(六五〇―六五五)の創立といい、古くは三大さんだい神社と称したが、飯道はんどう山の山麓にあたる当地に天台宗の教線が及ぶにしたがい、護法神として山王権現を称するようになったという。中世は池原杣いけがはらそま荘内にあって、矢川やがわ神社・新宮しんぐう神社(現滋賀県甲南町)と併せ杣三社そまさんしやと称され、土豪や荘民の信仰を集めた。延宝七年(一六七九)の三大寺村検地帳(三大寺区有文書)には山王権現とみえ、享保一一年(一七二六)の三大寺村寺社領除地帳(同文書)には境内二社、神主庄太夫、社僧本覚院とあり、本覚ほんがく(現飯道寺の前身)が別当を勤めていたことが知られる。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]豊岡市山王町

かつて豊岡城があった神武じんむ(城山)の西方に鎮座。祭神大国主神。旧県社。江戸時代初めまでは真言宗正法しようぼう寺の摂社であったが、承応二年(一六五三)に正法寺が退転したため万治三年(一六六〇)独立、明治二年(一八六九)山王社(山王権現)から日吉神社と改称。社地はしろ山から分れた標高三〇メートルの丘陵部先端に位置し、江戸時代は城地の郭内に接する準城地としての郭外に格付けされた。寛文八年(一六六八)京極高盛が入封すると、祖神の佐々木ささき社の祭礼にあたらせ、天保三年(一八三二)七月には佐々木大社分霊を勧請して相殿とした(日吉神社文書)

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]神戸町神戸上ノ宮

近鉄養老線の広神戸ひろごうど駅の北東に鎮座する。旧県社。祭神は大己貴神。弘仁八年(八一七)最澄が近江日吉社の大宮・二宮・宇佐宮・樹下宮の四社を勧請して創建。貞観二年(八六〇)円仁が客人宮・牛尾宮・三宮の三社を追斎し、延暦寺が本社と同じに崇敬する基をかためたと伝える。一説には、弘仁八年に最澄に帰依した郡領安八大夫安次が建立した善学ぜんがく院内に勧請したのが初めともいい、このとき最澄は神像四柱を、貞観二年に円仁が新たに神像三柱を彫刻し、山王七社とされた(神戸町史)。当社は中世の延暦寺領平野ひらの庄の中心に位置し、庄園支配の宗教面での中枢として勧請されたのであろう。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]穴水町中居南

集落背後の台地に鎮座。主祭神は大山咋命・市杵島姫命ほか五柱。南北なんぼく郷の大宮で、山王一実神道さんのういちじつしんとうともよばれ、岩車いわぐるまにあった天台宗安養あんよう寺の地主神として祀られたという。本地仏の木造金剛界大日如来坐像は平安初期の作と推定され、本殿下方の講堂に安置。長氏の祈願所とも伝え、関連の寄進状が現存する。社殿内に中居鋳物師鋳造の貞享二年(一六八五)銘の鋳鉄製鬼面、同四年銘の鋳銅製神鏡、天明三年(一七八三)銘の青銅製打物釣灯籠一対、文化八年(一八一一)銘・天保四年(一八三三)銘の鉄灯籠がある。集落西方、神明しんめいヶ鼻を隔てた海岸台地に釜中かまなか神社があったが、明治四一年(一九〇八)日吉神社に合祀された。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]宇部市大字川上 北迫

川上の北迫かわかみのきたさこの台地上に鎮座。主神は大山咋神・大己貴神・瓊瓊杵命、配祀は稲荷大明神・八王子神。旧村社。

「注進案」には山王さんのう権現宮と記す。創建年代は明らかでないが、同書に応永二年(一三九五)八月と永享六年(一四三四)四月の棟札写が載せられており、後者には「大檀那修理大夫多々良(大内)持世」と記している。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]柳川市坂本町

坂本さかもと町の南部、柳川城の堀に面してある。旧県社。柳川の産土神で、元来は山王宮あるいは山王権現社と称し、通称は山王さんのさん。社伝によれば、伏見天皇の時代に山門やまとやしろ(弥四郎村)の長が近江日吉大社から山王大権現を持帰り、仮殿を造り村の産土神としたのが始まりといい、文亀年間(一五〇一―〇四)に蒲池治久が柳川城を築いた際、城の鎮守としたという。天正一五年(一五八七)立花統虎(宗茂)が柳川に封ぜられると神領として柳河村一〇石を寄付され、その後下妻しもつま禅院ぜんにん(現瀬高町)内の地を加増され都合五三石となった。元禄八年(一六九五)三代藩主立花鑑虎により社殿が再興され、さらに藤吉ふじよし(現三橋町)で五〇石を加増され、神領は計一〇三石となった(南筑明覧)

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]松島町松島 町内

円通えんつう院の西方にある。祭神大山咋神。瑞巌寺の鎮守でもと法師ほうし崎の天童てんどう庵の側にあったが、寛永一七年(一六四〇)瑞巌寺雲居が現在地に正宮と別殿を造営して遷座。「天台由緒記」(瑞巌寺博物館蔵)によると天長五年(八二八)、天台宗延福えんぷく(瑞巌寺の前身)を開創した慈覚大師が勅宣により、近江坂本さかもとの山王七社大権現(日吉山王社)の神輿を奉じて下向、松島に祀ったのに始まると伝える。同書によると宝治二年(一二四八)四月一四日の山王七社大権現の祭礼には、延福寺の住職儀仁をはじめ三千の衆徒・堂衆・学生が残らず山王大師の神輿を守り、五大尊明王の伊陀天の前から法師崎の宝殿まで中廊を渡して神楽を奏したという。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]若宮町下

しもの南西部、犬鳴いぬなき川の右岸に位置する。大国主命・大山咋命などを祀り、旧村社。古くは山王権現社と称し、吉川よしかわ河内の総社とされ(「続風土記」など)、「続風土記附録」は日吉七座大明神・三島明神および沙川明神(一説には松尾明神とも)を祭神としてあげる。「続風土記」は鎮座の年代を不詳とするが、正徳四年(一七一四)に竹田定直が記した日吉山王七社大神故実(町村書上帳)は天暦年中(九四七―九五七)とし、「地理全誌」は天暦三年とする。当初は小伏こぶし村の比叡崎ひえざきに祀られていたという。応安元年(一三六八)社殿の修造があり、文明九年(一四七七)には少弐氏の家臣宗掃部丞盛秀が藤右京進安房に命じ、修理を行ったという(「山王社縁起」町村書上帳は同五年とする)

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]鳥取市布勢

湖山こやま池東岸、布勢の卯ふせのう山中腹にある。祭神は須佐之男命ほか四神。旧村社。近世末までは山王権現とよばれ、布施ふせ山王とも通称された。創立年代は不明だが因幡守護山名氏が近江日吉社の分霊を勧請したと伝える。天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の因幡侵攻の際兵火で焼亡、神領も没収されたが、亀井茲矩鹿野しかの(現鹿野町)城主として高草郡を領すると社殿を再建、社領を寄進したといわれる(県神社誌)

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]鹿島町江垂 中舘

祭神は大山咋命で、旧郷社。旧号を山王権現と称した。旧浜街道の一石いちこく坂とよばれた坂道の頂上東寄りの高地にある。境内地は太平洋を遠望できる地で、樹齢数百年の老杉(山王杉とよばれる)を中心に杉・椎などが鎮守の森を形成している。付近一帯は中世の中館なかだて城跡で、本丸や土塁を残す。伝承によれば、南北朝期に陸奥守北畠顕家が拠った霊山りようぜん(現霊山町)落城のとき、一族の桑折五郎元家が霊山王権現の神体を奉じ、主従七人らと宝財踊の姿に変装して逃げ落ち、中舘なかだての地に山王権現を安置した。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]熊本市十禅寺町

十禅寺じゆうぜんじ町の西端居屋敷いやしきにある。祭神は大山咋神ほか六神で、旧郷社。近世には山王社とよばれ、「国誌」には仁平年間(一一五一―五四)高江たかえ城主石浦河内守経国が近江国坂本さかもとの山王社を勧請したと伝える。弘安二年(一二七九)四月三〇日の詫磨長秀譲状案(詫摩文書)に「十禅師神主職」とみえ、詫磨氏が当社の神主の補任権をもっていたことが知られる。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]広瀬町東比田

永田ながた(長田)日蔵ひくら(比蔵山)に鎮座する。祭神大己貴命。中・近世には山王権現・山王社と称した(「雲陽誌」など)。伝承では天喜元年(一〇五三)藤内民部藤原信貞が両日りようひ(猿隠山)で化生のものを退治した際、神力を験したのでこれを勧請、同三年猿隠さるがくれ山八合目に社殿を建立したのに始まるといい、末社の藤内とうない社は信貞を祀り、建暦二年(一二一二)の建立という。現在地への遷座は、年代は不明だが藤内家一〇代信宗の時と伝える。天文八年(一五三九)四月一〇日の山王大権現造営棟札銘(島根県史神社資料)によると、東比田ひがしひだの地頭大槙(大馬木)河内守正定の外護を得て社殿が造営されており、弘治二年(一五五六)一〇月一一日の造営棟札銘(同資料)には大檀那馬木久綱とその代官大馬木彦四郎誠信の名がみえる。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]東金市大豆谷

大宮台おおみやだいに鎮座。山王権現・山王宮とも称した。祭神は大山咋命。旧郷社。社記によると、大同二年(八〇七)最澄がときヵ峰に近江日吉社の神霊を祀ったのが始まりと伝える。その後近くの和泉いずみヶ池にすむ蛇が民を苦しめるのでこれを鎮めるために池のほとりに移し、嘉慶元年(一三八七)参詣の便を考えて池を見下ろす現在地に移したという。東金町、台方だいかた押堀おしほり川場かわば堀上ほりあげ大豆谷まめざく各村の総社であった(「東金町明細帳」県立中央図書館蔵)

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]市浦村相内 岩井

相内あいうち集落の東北方岩井いわいに位置する。相内川支流の山王坊さんのうぼう川流域に開かれた田圃の北端の林に鎮座する。創建は不明。祭神は大山咋命。旧村社。

安東氏が福島ふくしま城の鬼門の鎮護として祀ったと伝えられ、山王造の京風二重鳥居は近隣にない。菅江真澄の「外浜奇勝」に次のようにある。

<資料は省略されています>

「津軽俗説選」に「山王坊山王三千坊 有古跡」とみえ、五輪塔やその他の古碑が多くあったことが知られ、十三千坊とさせんぼうの中心としての繁栄を推定しうるが、発掘調査が行われず全貌は不明。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]秋田市新屋日吉町

由利街道の北、松林に囲まれた参道が続き小丘に建つ。祭神は大山咋神・大物主神ほか八柱。旧県社。

縁起では大同元年(八〇六)勝平かつひら山の麓に鎮座と伝える。「六郡総諸寺院由緒」(県立秋田図書館蔵)によれば由利忠八郎が建立し社領を寄付、赤尾津治部少輔光政が七千刈の社領を寄進、次いで最上義光領となって楯岡豊前守の支配で元和六年(一六二〇)社堂建立とある。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]金沢市三池町

吉原よしわら町の郡家ぐんけ神社、鈴見すずみ町の郡家神社とともに「延喜式」神名帳記載の加賀郡一三座の一「郡家クムケノ神社」に比定される。旧村社で、祭神は大山咋神・大己貴神。江戸時代には山王社とよばれていたらしい。「三代実録」貞観一八年(八七六)七月二一日条によれば「郡家神」が従五位下を授けられている。社名は古代郡衙の所在地付近に祀られたことにちなむとされ、祭神は加賀国造の遠祖石撞別命、あるいは最初の国造とされる大兄彦君とされる(「三州式内等旧社記」など)

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]勝央町植月北 宮代

宮代みやしろに鎮座。祭神大山咋神など、旧郷社。例祭は一〇月二七日。「美作国神社資料」に載せる由緒によれば、天平一一年(七三九)近江日吉社を勧請し、殖月うえつき郷の総鎮守としたという。当地土豪の植月氏とのかかわりは深く、宝治二年(一二四八)植月中の小山こやま城主植月公興が守護神とし、享徳三年(一四五四)同城主植月重勝が本殿を再建。永正九年(一五一二)植月中の山王さんのう谷にあったのを植月基佐が現在地に移したという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]古座川町高池

池野口いけのくちの山中にあり、大山咋おおやまくい命を祀る。近世には山王権現とよばれ、「続風土記」によれば中湊なかみなと西向にしむかい神野川このがわ(現和歌山県古座町)三ヵ村の氏神で、応永元年(一三九四)一二月、熊野の豪族小山隆春の一族が比叡山より勧請、氏神として崇敬したという。当時の棟札写(「古座史談」所載)に「右造立、山王宮、応永元歳甲九月二十九日、一族等信心、三礼勧請申所如件」とみえ、侍役人として和田カケイ・方山ノ七郎・古田・カスヱ・小山ヤ六郎・北太郎・ヤ三郎らの名を記す。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]城島町江上本

馬場ばばに鎮座する旧郷社。祭神は大山咋命・大己貴神。近世末まで江上山王社、山王宮などと称され、地元では今も山王宮とよぶ。延暦年中(七八二―八〇六)大蔵朝臣江上長種が近江日吉社を勧請して創建したという。嘉禎二年(一二三六)には住吉神が勧請され、江上種冬が社壇を建立(寛文十年寺社開基)。慶長六年(一六〇一)田中吉政が社領一〇〇石(四町余)を寄進した(同年一二月一日「江上山王御神領帳」江上山王宮文書など)。寛文一〇年(一六七〇)神事を古式に戻したいと神主松本宮内が書付を提出した。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]宇部市大字車地

厚東ことう川の中流、二俣瀬ふたまたせとよばれる地の東側山裾に鎮座。祭神は大山咋命・天水分神。旧村社。

「注進案」には山王さんのう権現宮とあり、その社伝によれば、文治五年(一一八九)厚東武光が霜降しもふり城の鬼門祈願所として近江国坂本さかもと(現滋賀県大津市)の日吉神社より山王二十一社を勧請、吉見の持世寺よしみのじせいじに創建したのに始まるという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]八幡町島谷

乙姫おとひめ川左岸の最勝さいしよう寺と願蓮がんれん寺の中間、字若宮わかみやに鎮座。祭神は大山咋神。旧郷社。社伝によると、社地はもと原野で字大美屋おおみやといい小祠が鎮座していた。天正年間(一五七三―九二)遠藤慶隆が稲葉氏との合戦のとき、この地を戦場とし、小祠に祈り勝利を収めた縁で、安久田あくた村から日吉社を合祠し、八幡城下南の鎮護社にしたという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]府中市本山町 中谷

かめヶ岳の山麓にあり、祭神は大山久比命・大山祇命・木花開耶比女・天目一神・大物主・高神・罔象女神・大戸比売神。旧村社。

「福山志料」は日吉山王権現と記し「通証云此社昔ハ殊ノ外ナル大社ニテ今ノ町村金龍寺ハ吉田寺ト謂テ当社ノ別当ナリシト云伝ヘリ、(中略)愚按ニ恐ラクハ此村青目寺開基ノ時勧請セシナラン、(中略)又云寛永十年再建ノ棟札アリ、又云今ノ社ハ元禄十六年ノ造立ナリ」と記し、「西備名区」は「巌屋寺草創に比叡山をうつし、麓に日吉山王を勧請し鎮守とす、後本村の産社となる」という。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]小浜市東市場

松永まつなが川河畔の口八幡田くちはちまんだに鎮座する。祭神大山咋おおやまくい命。旧村社。日吉山王大権現ともいう。近世まではきた川左岸の北横田きたよこたに鎮座し、横田の宮・横田の杜とも称し、別当は神宮じんぐう寺であった。延慶元年(一三〇八)、近江日吉社の神を勧請したと伝え(日吉山王権現由緒記)、十一面観音を安置したという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]清洲町清洲 内須ヶ口

祭神は大山咋神。旧称山王さんのう社・山王権現社。旧村社。「府志」「西春日井郡誌」は祭神を素戔烏尊・大己貴命とする。社伝によると、宝亀二年(七七一)尾張に疫病が流行した時、素戔烏尊・大己貴命の霊を祀ったのが当社の始まりであり、大同二年(八〇七)に橘逸勢が社殿を造営して祠官を定めたという。その後、天正八年(一五八〇)に織田太郎左衛門が近江国に鎮座の山王社を勧請して二一社を造立したが、同一二年の小牧・長久手の戦に兵火にかかった。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]青木村大字殿戸 神門

もと山王権現といい、明治二年(一八六九)日吉神社と改称。明治六年村社。祭神は大山咋命。

宝永三年(一七〇六)村差出帳(上田藩村明細帳)には山王宮社領七〇〇文を記す。この地方は「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に「浦野庄日吉社領」とある地で、この頃勧請されて荘園の守護神として祀られたものであろう。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]稲沢市法花寺町 添田

法華ほつけ寺とは道を隔てて東にある。祭神は大山咋命・建速須佐之男命・菊理比売命。旧村社。祭礼一〇月二〇日、境内に津島つしま社・白山社がある。境内一四三坪。法華寺の鎮守として境内の白山社が日吉神社境内に移された時、鉄製懸仏一面が納められ、それには「駿河国菴原郡興津郷 源義泰敬白」「大永四年甲申六月吉日 前嶋左近四郎」の刻銘がある。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]直方市植木

植木うえきの中心街の西方、井関いぜきにある。祭神は大己貴神・大山咋神。旧村社。「続風土記附録」には、慶長一〇年(一六〇五)しも(現若宮町)より勧請して産土神と同様に祀っている社で、神殿は三間四方、拝殿は二間四方、石鳥居があり奉祀者は田部主税、祭礼は九月二一日とある。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]大野市日吉町

やや小高い丘の上に鎮座する。一説に亥山いやま(土橋城)跡ともいい、西に清水の湧く堀が残る。祭神は大山咋おおやまくい尊。旧郷社。社伝は暦応(一三三八―四二)頃の創建というがつまびらかではない。その後、朝倉氏ら武将の信仰を集めた。しかし一時荒廃したようで、寛文元年(一六六一)に町民たちの手で再興され、大野藩主より屋敷高二石四斗の寄進を受けたという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]吉田町法花津

南は法花津ほけづ湾に臨み、周囲を法花津の集落に囲まれた小丘陵上に立地する。祭神は大山咋命。旧村社。

延宝九年(一六八一)の「吉田古記」に「山王権現宮一社、御神体御鏡」と記されるのが当社にあたるが、創建年代は明らかでない。また同書に応永一八年(一四一一)の月日が記されているがその意味は不明。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]一戸町姉帯

姉帯あねたい北西部の門前もんぜんにあり、祭神は国常立命。旧村社。勧請年代は不明だが、もと山王権現と称し、元禄三年(一六九〇)より天台修験善明院が別当となり、明治四年(一八七一)改称したという(新撰陸奥国誌)

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]南国市比江

比江ひえの字みやまえに鎮座。祭神は大山咋命。旧郷社。日吉山王権現ともいい、勧請年月は不詳だが、国衙の官人公文氏が比叡山の山王権現をこの地に勧請したと伝える。もと現社地の東方五〇メートルにあったが、山内家の家老乾(山内)彦作和成が移したという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]神戸町下宮 村内

上ノ宮と称される神戸日吉神社の南方の旧下宮しもみや村地内に位置し、下ノ宮と称する旧村社。祭神は大己貴神・大山咋神など。上ノ宮と同じく弘仁八年(八一七)最澄の帰依を受けて勧学かんがく院が建立された際、近江日吉神社を勧請して創建されたと伝える。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]五霞村山王

山王さんのうのほぼ中央に鎮座。祭神猿田彦命。旧村社。拝殿内に「日枝大社」の献額がある。もとは東方の江戸川堤防付近にあったが、大正元年(一九一二)の河川改修で現在地に移転したという。

日吉神社
ひよしじんじや

[現在地名]小松島市田浦町

中村なかむらにある。主祭神は大山咋命。旧村社。創建年代は未詳であるが、近江日吉社の分霊を勧請したという。寛保改神社帳には山王権現とみえる。毎年一〇月の例祭には踏鞴による神事が行われ、田浦のたたら踏みとして県指定無形民俗文化財となっている。たたら踏みが盛んであった当地方の伝統を伝え、全員が法被・鉢巻・手甲・脚絆に草鞋履きで日傘をもつ装いで、踏手は二〇人足らず、囃子方が東西東西の掛声を合図に音頭師が歌い出す。

日吉神社
ひえじんじや

[現在地名]五霞村山王山

東昌とうしよう寺の南に鎮座。入口に「下総国葛飾郡山王山村、文化十年、十九夜供養塔、女人講中」と刻む碑が立つ。土地の人は「大神宮さま」とよぶ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「日吉神社」の解説

日吉神社
ひえじんじゃ

滋賀県大津市坂本にある神社。延暦寺の守護神
平安時代以降朝廷の崇敬厚く,特に院政時代,延暦寺僧兵がこの神社の神輿 (みこし) を奉じて,しばしば朝廷に強訴 (ごうそ) した。本殿は日吉造の神社建築。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「日吉神社」の解説

日吉神社〔岐阜県〕

岐阜県安八郡神戸町にある神社。817年創祀とされる。祭神は大己貴神(おおあなむちのかみ)。三重塔は国の重要文化財に指定。「山王さん」とも呼ばれる。毎年5月に行われる、神戸山王まつりが有名。

日吉神社〔東京都〕

東京都昭島市にある神社。古くは「山王大権現」と呼ばれた。明治の神仏分離の際に改称。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、羽山戸命(はやまどのみこと)、香山戸命(かやまどのみこと)。

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事典 日本の地域遺産 「日吉神社」の解説

日吉神社

(愛知県岡崎市美合町字西屋敷149-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積3,250【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

百科事典マイペディア 「日吉神社」の意味・わかりやすい解説

日吉神社【ひえじんじゃ】

日吉(ひよし)大社

日吉神社【ひよしじんじゃ】

日吉大社

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

事典・日本の観光資源 「日吉神社」の解説

日吉神社

(福岡県飯塚市)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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