平城宮(読み)ヘイジョウキュウ

デジタル大辞泉 「平城宮」の意味・読み・例文・類語

へいじょう‐きゅう〔ヘイジヤウ‐〕【平城宮】

平城京の宮城(大内裏)。京の北部中央に位置し、東西約1.3キロ、南北約1キロで、東側に張り出し部がある。宮城内のほぼ中央に内裏、その南側に朝堂院があり、それらの周囲に諸官衙かんがが建ち並んでいた。平城宮跡は平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「平城宮」の意味・読み・例文・類語

へいじょう‐きゅう ヘイジャウ‥【平城宮】

(「へいぜいきゅう」とも) 平城京の宮城、大内裏(だいだいり)。平城京の中央北端(奈良市佐紀町・北新町法華寺町)に位置し、左京・右京の一条・二条の各一坊、計四坊(方八町)約三〇万坪(約九九万平方メートル)の面積をしめる。なお、朝集殿と呼ばれた建物は唐招提寺の講堂として寄進され、現存。国特別史跡。ならのみや。平城。

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改訂新版 世界大百科事典 「平城宮」の意味・わかりやすい解説

平城宮 (へいじょうきゅう)

現在の奈良市にあった古代の宮殿。710年(和銅3)から784年(延暦3)まで営まれ,途中8年ほど中絶し,恭仁(くに)京(京都府相楽郡)等に都が遷されたことがあるが,70年にわたって存続した。南北約1km,東西1.3kmの広さをもち,その中に天皇の御在所であり日常生活の居所であった内裏(だいり),公の儀式,政治の場である朝堂院(ちようどういん)があり,さらに百官と総称された官司の建物があった。したがって平城宮は天皇の居所であると同時に,当時の律令国家の中央政府機構の所在地であった。この平城宮には貴族,役人が政務のために出仕し,さらに仕丁(しちよう),役夫,奴婢など労役に服する人々が出勤していた。政治の決定に参加していた貴族は100人前後ときわめて少なく,その下に初位以上の役人が600人近くおり,さらに下級の役人をふくめると6000人近くが働いていた。これに労役に従事した人々をあわせると約1万人に近い人々が毎日平城宮で働いていたことになる。

 平城宮の実態は,奈良時代の少数の文献史料から多少復元できるものの,平安宮とは異なって古図もなく,文献史料から平城宮を解明することはきわめて困難である。しかし1959年以後,継続的に平城宮が発掘されるようになって,かなりその実像がうかびあがってくるようになった。

平城宮は784年山城の長岡宮(京都府向日市)遷都後も,9世紀初めまでは平城天皇の離宮などとして使用されていた。しかし9世紀には廃絶し,やがて水田になったらしい。このため宮跡は正確にはわからなくなり,幕末になって北浦定政(1817-71)が平城京全体の位置を推定するまで不明のままにされていた。国学者である定政は測量学にも通じ,天皇の陵墓や宮都の位置,また大和国の条里制などに興味をもっていた。平城京については,自製の測量器械で現地測量し,平城京の道路の痕跡が水田のあぜや農道に残されていることを確認し,その結果を《平城京大内裏跡坪割図》(1852)としてまとめたので,平城宮の位置もほぼ明らかになった。明治時代には関野貞(ただし)(1867-1935)による現地踏査が行われ,平城宮は方1kmの正方形と推定された。関野の踏査は日清戦争直後に行われ,小字名に〈大黒の芝〉という名を残す土壇を発見して平城宮の大極殿の跡であると推定した。さらにその南方にひろがる水田跡の中に平安宮古図にみえる朝堂院の12の殿舎に相当する土壇を発見し,これを朝堂院跡と推定した。また平城宮の位置を定政と同様に考えたが,これによると関野の推定した大極殿,朝堂院は宮の中軸線より東にずれることになった。関野は中軸線上にも宮の重要施設があるものと考え,南に《続日本紀》にみえる南苑,その北に内裏を推定した。この成果は《平城京及大内裏考》(1907)としてまとめられ,平城宮内の施設の具体的なありさまがかなり明らかになった。北浦や関野の方法は現地形と小字名にもとづくもので,発掘調査は行われなかった。しかし現地形と小字名との調査は,今日発掘調査を行うさいの予備的に必要な作業として継承されている。

 関野によって平城宮の実態が多少復元され,日清戦争後の平安神宮造営など当時の風潮とも関連して,平城神宮造営の動きも生じ,平城宮の顕彰運動が明治末期から大正年間にかけてはじまった。運動をはじめたのは生駒郡佐紀村(現,奈良市佐紀町)の農民溝辺文四郎と奈良市内の植木職棚田嘉十郎とである。運動はやがて実をむすび,1922年平城宮の中心部分とされた朝堂院付近が史跡に指定され保存された。1926年には上田三平によって,大極殿周辺の凝灰岩切石列や内裏南辺の築地回廊の小礎石群が発掘され,はじめて発掘調査により平城宮の一端を明らかにすることとなった。28,29年には平城宮北辺付近で岸熊吉が玉石組みの護岸施設をもつ溝の発掘調査を行い,豊富な遺物を発見した。

 第2次大戦後の1953年,付近の米軍キャンプとの関連で平城宮内を通る農道の拡幅工事を行った際,平城宮の杭列が地中より発見され,道路敷地内での発掘が行われた。59年からは奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査がはじめられた。61年には民間電鉄により宮跡内での開発が計画された。これに対し,全域の保存のため史跡指定と国有地化を推し進める運動が広く学者,文化人,市民等により行われ,世論の強い声のもとで史跡指定と公有地化が推進された。64年には関野が推定した平城宮東辺に国道24号線のバイパス建設が計画されたが,建設にさきだって行われた発掘調査で,平城宮は関野の推定線より東へさらに300m近く広がっていることが確認された。この結果再び保存運動の声があがり,拡張区もふくめて史跡指定,公有地化が行われるようになった。

 このような過程を経て平城宮の発掘は進行し,1984年現在では宮全域の20%の発掘を終わっている。20年でほぼ2割の発掘調査では,なお80年を必要とすることになるが,この20%の発掘調査でもかなりの問題を明らかにすることができた。

内裏

内裏は関野の推定とはちがって,大極殿の真北にあったことが判明した。また内裏正殿を中心に,ほぼ平安宮の内裏と類似した殿舎の配置をもつことがわかった。平安宮ともっとも大きく異なる点は2点ある。第1点は,平城宮内裏の中は公的な内裏正殿を中心とする部分と,その北の天皇の私的な居住空間が回廊で隔てられているのに対して,平安宮では瓦垣で隔てているだけで,まったく分離した空間となっていないことである。第2点は,平安宮は内裏の周囲を中隔垣で二重に囲っているものの,中隔垣と内裏の内郭との間には官衙はつくられていないのに対して,平城宮では官衙が少なくとも5ブロック見つかっていることである。このことは平城宮の内裏が,天皇の私的生活の場としてより,官衙を所属させ公的な場もつけくわえた,より公的性格を強くもっており,天皇の公的政治権力がいまだに強かった時代を象徴しているようにみえる。これら内裏に付属する官衙としては,北に内膳司,東に宮内省の存在が推定されているが,内膳司は〈内裏盛所〉と記された墨書土器があること,宮内省はこの内裏外郭の官衙の中ではもっとも大規模な礎石建物が見つかったことが推定の手がかりになっている。

朝堂院

関野が推定した平城宮東寄りの朝堂院の跡以外にも,宮の中軸線にそって水田のあぜの形態に同様の痕跡があったため,最初に平城宮が造営されたときには宮の中軸線上に朝堂院があったものかと推定されていたが,発掘調査の結果,むしろ平安宮の豊楽院(ぶらくいん)に近い施設であったことが判明した。またこの宮の中軸線の北方にも内裏に似た正方形の区画がある。この地域の性格はなお問題を残してはいるが,一応,平城宮の初期には大極殿があり,その後恭仁京還都後東寄りに別の大極殿がつくられて以後には,西宮と称される天皇の居所がつくられたものとみられている。このほか,この地域を中宮とする説もある。

平城宮内で見つかった官衙区域のうち名称が推定できたものは,馬寮(めりよう),大膳職(だいぜんしき),陰陽寮(おんみようりよう),式部省,兵部省,民部省,造酒司(さけのつかさ)等であり,その遺跡を直接確認したものは馬寮,大膳職,陰陽寮,造酒司である。馬寮は平城宮西辺にあって,長い細殿的な建物からなり,その細殿にかこまれて広い空間がある。〈主馬〉と記した木簡が出土したことから推定された。大膳職は,内裏の北西にあたるところで,炊事につかわれたと思われる井戸2基と建物群と,ごみ捨て穴から食料を請求してきた木簡が出土したことから推定できた。造酒司は平城宮東辺で,酒をつくるための水をとる井戸2基と酒に関する木簡,水ないし酒をいれたらしい須恵器の甕(かめ)などから推定された。もっとも造酒司の本司でなく酒殿的な遺構かもしれない。陰陽寮は内裏の南東にあたるところで出土した〈陰陽寮〉の木簡が手がかりになっている。他の官司はその官司の本体を発掘したわけではなく,その周辺部で兵部,民部,式部各省関係の木簡,墨書土器が見つかったことによる。

平城宮が関野説より,東へ拡張している部分で見つかったもので,まだその規模等はよくわかっていない。大規模な石組みの池をもち,遣り水の施設などのある庭園を南東部分につくった離宮的なもので《続日本紀》では東院,楊梅宮(やまもものみや)などとよばれている。

これまで若犬養門,玉手門,佐伯門,朱雀門,壬生(みぶ)門,小子(部)(ちいさこべ)門などが発掘されている。このうち最後の小子門は《続日本紀》に1回みえる以外は文献史料にみられない。平城宮の東張出部分の南にあったもので,この門の付近の溝から〈小子門〉と記した木簡が数点見つかったことから推定された(宮城十二門)。

 以上のように,発掘調査の進行とともに平城宮内の施設が明らかになったほか,以下のような成果があがった。すなわち,多くは掘立柱建物で70年間に何度も建てかえられたので配置にも歴史的変遷があったこと,土器が絶対年代を記した木簡と伴出し,土器の観察も正確になったので編年が絶対年代としても10年間ぐらいに区切って定立することができたこと,関野説が訂正され平城宮が東へ張り出していたこと,等である。このほかにも瓦の編年等の研究,木製品,呪術のための道具等豊富な資料を得ることができ,8世紀の宮廷生活を具体的に再現できるようになりつつある。
宮城 →平城京
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平城宮」の意味・わかりやすい解説

平城宮
へいじょうきゅう

710年(和銅3)から784年(延暦3)の首都平城京の中枢部分をいう。元明(げんめい)~桓武(かんむ)天皇の7代にわたる宮である。平城京の北端に位置し、一辺1キロメートルの正方形の東に張り出し部分があり、面積は合計124ヘクタールを占める。大正年間より遺跡保存がはかられ、現在国の特別史跡として、遺跡の調査と整備が続けられている。1998年(平成10)にはユネスコの世界文化遺産に登録された。

 宮の四周には高さ5メートルと推定される築地(ついじ)大垣がめぐり、大路に面して12の門が開く。正門にあたる朱雀(すざく)門は25メートル×10メートルの規模をもち、重層の門として現地に復原されている。

 天皇の住まいである内裏(だいり)は、宮の東北部に位置し、約180メートル四方の内郭に掘立柱(ほったてばしら)、桧皮葺(ひわだぶき)という伝統様式の建物が建ち並んでいた。内郭の南半にある正殿(後の紫宸殿(ししんでん))は桁行9間(27メートル)梁間5間(15メートル)の規模である。

 政務や儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)は、最も重要な施設で、天皇が着座する大極殿(だいごくでん)と役人が着座する朝堂からなる。その遺跡は、朱雀門の北で宮の中央と、その東隣で内裏の南の2か所にある。大極殿は、天皇を象徴する大規模な建物で、奈良時代前期には中央に、後期には東に遷して建てられたと考えられる。その前期の大極殿が復原された。瓦葺(かわらぶき)の礎石(そせき)建物で、桁行9間(45メートル)梁間5間(15メートル)の規模である。

 内裏と朝堂院の周辺には、二官八省以下の官衙(かんが)(役所)が配置された。これまでの調査で、太政官、宮内省、式部省(しきぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、大膳職(だいぜんしき)、造酒司(ぞうしゅし)、馬寮(めりょう)などの各官衙が判明した。その位置関係をみると、平安宮のそれと類似し、何らかの原則があったことを窺わせる。

 他の宮にない東の張り出し部分は、東院(とういん)と称されるが、その南半は、天皇が出御して儀式や宴を行った場所と考えられる。東南隅には旧地形を生かした園池が発掘され、当時の庭園遺構として貴重である。

[寺崎保広]

『田中琢著『古都発掘』(1996・岩波新書)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平城宮」の解説

平城宮
へいじょうきゅう

「へいぜいきゅう」とも。奈良時代,710年(和銅3)から784年(延暦3)までの宮城。平城京の中央北端に位置し,約1km四方の方形の地に,東西270m,南北750mの張出し部分を東北方に付属させている。面積約124ヘクタール,天皇の住居である内裏(だいり),政治・儀式の場となった大極殿(だいごくでん)・朝堂院,一般の役所である曹司(ぞうし)からなる。平安宮などと基本的構成は同じだが,宮内中央とその東に二つの大極殿・朝堂院とみられる遺構が存在するなど,その成立には複雑な経緯があったと思われる。遺跡の整備,建造物の復原が進められており,2010年(平成22)までに大極殿・朱雀門・宮内省地区・東院庭園が復原されている。宮跡は国特別史跡。

平城宮
へいぜいきゅう

平城宮(へいじょうきゅう)

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百科事典マイペディア 「平城宮」の意味・わかりやすい解説

平城宮【へいじょうきゅう】

平城京

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世界大百科事典(旧版)内の平城宮の言及

【宮殿】より

…持統朝の藤原宮は方1kmの面積になり,そのうち大極殿,朝堂院および宮城十二門が大陸風の礎石・瓦葺建物で,他はすべて古墳時代以来の伝統的な掘立柱板葺あるいは檜皮(ひわだ)葺の建物であった。平城宮に移って一部東に皇太子の住居を足したため124haとなる。ここでも大極殿・朝堂院は礎石・瓦葺建物で,内裏やほとんどの役所は掘立柱建物であったことがわかっている。…

【大極殿】より

…しかし後の唐の長安城の太極殿では,東西両堂および前殿をともなっていない。 日本の古代の都城における大極殿は,中国の太極殿の系譜をひくと考えられ,藤原宮,平城宮,長岡宮,恭仁宮,平安宮,後期難波宮などで跡がみつかっている。いずれも前殿をもたず,藤原宮をのぞいては東西両堂ももたないので,唐の太極殿を継受した可能性が高い。…

【内裏】より

…このうち内裏の内側の築地には12の門がもうけられ,それぞれ近衛(このえ),兵衛(ひようえ)が守護することになっていた。 このような内裏は,古代のどの都城にもあったはずであるが,平城宮,藤原宮,難波宮,伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)などの発掘調査で,その存在が確認されている。このうち,最も詳しくわかっているのは平城宮の場合である。…

【奈良時代美術】より

…大和平野北端の理想的な地勢上に幹線道路の下ッ道を朱雀大路に利用し,南北5km,東西6kmに大路・小路を方眼に配し,南面には羅城を築き正面に羅城門を開いた。幅90mの朱雀大路の奥に方1kmを占めて平城宮が置かれ,天皇の住宮殿である内裏,儀式と公式行事の広場をもつ大極殿朝堂院,八省百官の官庁街があり,さらに東に突き出して苑池のある東院があった。宮城門や大極殿,朝堂院は大陸式に基壇をもち瓦葺きの建築であったが,内裏や官庁には掘立柱檜皮葺きが多かった。…

【南苑】より

平城宮に関連する施設。《続日本紀》での初見は727年(神亀4)で,以後同書に747年(天平19)までみえる。…

【藤原宮】より

…外濠と宮周辺の大路との間には幅30mを超す広大な空閑地(外周帯)をめぐらす。平城宮では大垣から宮周辺の大路までの壖地(ぜんち)の幅は10mほどだが,藤原宮では壖地,外濠,外周帯を合わせた幅は57mと実に5倍以上の広さである。しかし,この広大な空閑地の機能や性格はよくわかっていない。…

【木簡】より

…そのほか民政をはじめ漢代の生態の断面が浮彫にされ,漢代史研究に大きく寄与している。後述にあるように日本においては1961年に平城宮跡で木簡が出土し,以後各地でも発見され,日本古代史の新史料として注目を集め,郡評論争に終止符を打つなど重要な貢献をしている。中国,日本ともに考古学の発達により文献史料にのみ頼る研究は不十分になりつつあるが,木簡資料はその意味で最も重要である。…

※「平城宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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