島津重豪(読み)しまづしげひで

精選版 日本国語大辞典 「島津重豪」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐しげひで【島津重豪】

江戸後期の薩摩藩主。重年長男。一一歳で襲封。蘭学を好み、造士館、演武館を創立して文武を奨励し、医学院、薬草園を建てて医学を広め、また、明時館を創建して天文暦数を研究した。家督を子の斉宣に譲った後も実権をもち、藩財政再建のため側用人調所広郷(ずしょひろさと)を登用して殖産興業をはかった。延享二~天保四年(一七四五‐一八三三

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デジタル大辞泉 「島津重豪」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐しげひで【島津重豪】

[1745~1833]江戸後期の薩摩藩主。藩校や医学院の創設など文化事業を推進。債務解消のため調所広郷ずしょひろさとを登用して財政改革を図った。

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朝日日本歴史人物事典 「島津重豪」の解説

島津重豪

没年:天保4.1.15(1833.3.6)
生年:延享2.11.7(1745.11.29)
江戸後期の第9代薩摩(鹿児島)藩主,島津家第25代当主。幼名は善次郎,又三郎,通称は薩摩守,隠居ののち上総介。官位は従三位,左近衛中将。諱ははじめ久方,忠洪。号は栄翁,南山。薩摩藩主島津重年の長子。鹿児島生まれ。宝暦5(1755)年に父重年死去により11歳で襲封し,祖父継豊の後見を受ける。同8年に元服し,同12年に一橋宗尹の女子保姫と結婚した。安永5(1776)年にはその3女茂姫と一橋治済の子の豊千代との縁組が成立。豊千代はのち家斉と名をあらためて将軍徳川家治の養嗣子に迎えられ,天明6(1786)年には11代将軍に就いたことから,重豪は将軍の岳父として幕府内でも御三家に準じる待遇を受け,江戸城の殿席も大廊下の間に移された。この殊遇の背後には,彼と親交のあった田沼意次の意向が働いていたと思われ,重豪は意次が失脚した直後の天明7年1月に隠居して藩主の地位を長子斉宣に譲っている。重豪は学問を好んで中国語,オランダ語をこなし,自ら『南山俗語考』を著し,曾槃,白尾国柱らに命じて120巻の博物書『成形図説』を編纂せしめるなど学術を振興し,また佐藤信淵を招いて殖産興業政策をすすめるとともに,造士館,演武館,医学院,明時館(天文館),薬園など文武諸般にわたる文化施設の充実に努め,学術を振興した。長崎オランダ商館のティチング,ドゥーフ,シーボルトらとも交流があって,江戸屋敷にオランダ文物を収集した独楽園を設けた。隠居後も実権をもって,このような豪華な文化政策を推し進めたところから藩財政は破綻し,家老の樺山主税たちは重豪の政治を否定すべく改革に乗り出した。しかし文化5(1808)年,重豪はこれを弾圧し,首謀者たちに切腹を命ずるなど100人をこえる大量の処罰者を出し,翌年には藩主斉宣をも廃位した。この「近思録崩」(あるいは「文化朋党事件」)と呼ばれた事件により藩主は孫の斉興に代わったが,重豪は引き続き藩の実権をにぎるとともに,文政10(1827)年には調所広郷を起用して,500万両にのぼる膨大な借財の解消を目的とする大胆な財政改革を強行した。天保4(1833)年に江戸高輪藩邸に没す。法名,大信院殿栄翁如証大居士。<参考文献>芳即正『島津重豪』

(笠谷和比古)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津重豪」の意味・わかりやすい解説

島津重豪
しまづしげひで
(1745―1833)

江戸後期の薩摩(さつま)藩主。延享(えんきょう)2年11月6日加治木(かじき)領主島津氏の鹿児島邸に生まれる。1755年(宝暦5)11歳のとき宗家を継いで藩主となる。87年(天明7)隠居、56歳のとき総髪し栄翁(えいおう)と称す。重豪治世の中心は、士風の開化と文化の発展を図ることにあった。薩摩の言語風俗の粗野を戒め、上方(かみがた)風俗の移入に努め、また藩校造士館(ぞうしかん)、演武館をつくって藩士の文武教養の場とし、さらに医学院、明時館、薬園などを設けた。さらに農業百科全書ともいうべき『成形図説』、動植物関係の『鳥名便覧』『質問本草』『琉球(りゅうきゅう)産物誌』、中国語辞書『南山俗語考』や『琉客談記』『島津国史』などを編集させ、文化事業に力を尽くした。このほか当時の大名には珍しく蘭学(らんがく)興隆に情熱を傾け、蘭癖とまでいわれた。71年(明和8)江戸からの帰途長崎に立ち寄って蘭館を訪問、蘭船に乗り込み、自らもオランダ語や中国語を習得し、歴代商館長とも親しく交際、晩年シーボルトと会見して直接教えを受けた。一方、その治世中累積した藩債は一段と増加し、その打開を図った家老秩父季保(ちちぶすえやす)らの緊縮政策が重豪を無視したことからいたく激怒、秩父一党を徹底的に弾圧した(近思録くずれ)。しかしその後財政の窮迫は急速に高まり、藩債は500万両の巨額に達し、ここに茶坊主あがりの調所広郷(ずしょひろさと)を起用して財政改革にあたらせた。その途上、天保(てんぽう)4年1月15日江戸に没した。墓は鹿児島市島津家墓地にある。

[芳 即正]

『芳即正著『島津重豪』(1980・吉川弘文館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津重豪」の意味・わかりやすい解説

島津重豪
しまづしげひで

[生]延享2(1745).11. 鹿児島
[没]天保4(1833).2.2. 江戸
江戸時代後期の薩摩藩主。父は重年,母は島津備前守貴儔の娘。初名は久方,次いで忠洪,幼名は善次郎。号は栄翁。宝暦5 (1755) 年藩主となる。薩摩の文化発展に寄与するとともに,政治的にも藩政,幕政に大きな影響を与えた。文化面では,『南山俗語考』を著わし,藩学を興すために安永2 (73) 年造士館,演武館を,翌年医学院を創立。みずからオランダ語を学び,江戸参勤の帰途長崎のオランダ商館に立寄って商館長 H.ドゥフや医官 P.シーボルトとも親交を結び,薬物を研究して江戸に薬草園を開いた。政治面では,娘茂子が将軍徳川家斉の御台所であったため,これをはばかって天明7 (87) 年 43歳のとき,子斉宣に家督を譲ったが,藩政上はかなり積極的な政策を次々と打出した。しかし,みずからの華美好みと相まって藩財政は破綻をきたし,斉宣も重豪の政策に公然と批判を加えるようになった。文化5 (1808) 年樺山主税,秩父太郎らが登用されて藩政改革が行われたが,重豪は改革の担当者を江戸に呼んで厳重に処罰し,斉宣を隠居させ,斉興に家督を継がせて後見した。しかし江戸藩邸の火災や天明の大飢饉などが続き,ついに調所広郷 (ずしょひろさと) を登用して藩財政の立直しをはかったがまもなく没した。なお,その次男昌高は中津奥平氏,12男斉溥は福岡黒田氏,13男信順 (のぶより) は八戸南部氏を継いだ。

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百科事典マイペディア 「島津重豪」の意味・わかりやすい解説

島津重豪【しまづしげひで】

江戸後期の薩摩(さつま)鹿児島藩主。1755年11歳で襲封。豪放な性格と,将軍徳川家斉の舅(しゅうと)としての勢威もあわせ,1787年家督を斉宣(なりのぶ)に譲って後も藩政を介助した。蘭癖(らんぺき)大名の一人としてドゥーフシーボルトと交わり,《鳥名便覧(ちょうめいべんらん)》《成形図説》《南山俗語考》等を編纂(へんさん)。藩学造士館,演武館ほか医学館,明時館を創設し,薩摩暦を発行。そのため藩財政の困難を招いた。1808年藩政改革の動きに首謀者を処罰(近思録崩れ),斉宣を隠居させた。後調所(ずしょ)広郷を用いて財政改革に当たらせた。
→関連項目島津国史造士館

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改訂新版 世界大百科事典 「島津重豪」の意味・わかりやすい解説

島津重豪 (しまづしげひで)
生没年:1745-1833(延享2-天保4)

江戸後期の薩摩藩主。1755年(宝暦5)襲封。蘭学を好みオランダ商館長らと親しく,積極開化政策を進め,73年(安永2)藩学造士館・演武館,翌年医学館,79年明時館を設け,薩摩暦を発行。また《成形図説》《質問本草》《琉球産物志》等を編纂。息女茂姫は11代将軍徳川家斉夫人。彼は高輪下馬(たかなわげば)と称される豪奢な生活をし,藩財政は危機に陥ったが,近思録崩れの後,調所広郷(ずしよひろさと)を用いて打開。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津重豪」の解説

島津重豪
しまづしげひで

1745.11.7~1833.1.15

江戸後期の大名。薩摩国鹿児島藩主。父は重年。1755年(宝暦5)遺領相続。一橋宗尹(むねただ)の女保姫と結婚。三女茂姫は将軍徳川家斉(いえなり)の御台所。87年(天明7)隠居して長男斉宣に家督を譲るが,孫の斉興の代まで後見として藩政に影響を及ぼした。蘭癖と称されるほど蘭学に傾倒し,長崎オランダ商館や江戸の長崎屋にティチング,ドゥーフ,シーボルトを訪ね親交をむすび,オランダの文物も収集。造士館・演武館・医学院・薬園・明時館(天文館)などの文化施設を設立,その他「南山俗語考」「島津国史」「成形図説」「鳥名便覧」「質問本草」を編纂刊行して,鹿児島藩文化の発展に貢献。次男の中津藩主奥平昌高や十二男福岡藩主黒田長溥(ながひろ),曾孫の斉彬(なりあきら)に大きな影響を与えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津重豪」の解説

島津重豪 しまづ-しげひで

1745-1833 江戸時代中期-後期の大名。
延享2年11月7日生まれ。島津重年の長男。宝暦5年11歳で薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家8代となる。蘭学や本草学をこのみ,藩校造士館,医学院などを創設。3女茂姫(広大院)が将軍徳川家斉(いえなり)の正室となり,幕府内で重視される。天明7年隠居し,斉宣(なりのぶ)に家督をゆずったが,孫の斉興(なりおき)の代まで藩政の実権をにぎった。天保(てんぽう)4年1月15日死去。89歳。初名は久方,忠洪(ただひろ)。通称は兵庫,又三郎。号は南山,栄翁。著作に「成形図説」「南山俗語考」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「島津重豪」の解説

島津重豪
しまづしげひで

1745〜1833
江戸後期の薩摩藩主
11歳で藩主となった。藩校造士館に蘭学を導入して積極的開明策を採用。ほかに演武館・医学館・明時館も創立。治世後半に藩財政の窮乏を招いたが,藩政改革に調所広郷 (ずしよひろさと) を登用し殖産興業を推進した。

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367日誕生日大事典 「島津重豪」の解説

島津重豪 (しまづしげひで)

生年月日:1745年11月7日
江戸時代中期;後期の大名
1833年没

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世界大百科事典(旧版)内の島津重豪の言及

【近思録崩れ】より

…江戸時代後期,薩摩藩の事件。1787年(天明7)斉宣が島津家27代の封をついだが,前代重豪(しげひで)の開化進取政策により財政は破局に向かっていた。斉宣は1807年(文化4)近思録派(《近思録》を愛読し,実践を重んずる党派)を起用し,徹底的な緊縮政策を実施し,重豪の新規政策をことごとく破却した。激怒した重豪は翌08年樺山・秩父ら50人ばかりの党類に切腹,遠島,寺入りを命じ,斉宣を隠居させて孫の斉興に襲封させた。…

【中野碩翁】より

…また各方面から多量の賄賂を獲得し,隠居後は向島に瀟洒な下屋敷を構えて気ままな生活を楽しんだ(上屋敷は駿河台)。その驕奢は評判を極め,家斉の実父一橋治済(はるさだ)(穆翁),家斉夫人の父島津重豪(しげひで)(栄翁)とともに三翁と称された。【北原 章男】。…

※「島津重豪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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