岩淵村(読み)いわぶちむら

日本歴史地名大系 「岩淵村」の解説

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]富士川岩渕いわぶち

南流する富士川右岸の河岸段丘上に位置する。東は同川を隔てて松岡まつおか(現富士市)、北は木島きじま村、西は南松野みなみまつの村。松岡村から同川を渡った東海道が南下して中之郷なかのごう村に向かい、同村近くに一里塚(県指定史跡)がある。永禄七年(一五六四)五月四日の今川氏真朱印状(臨済寺文書)に「岩淵」とあり、当地のうち関口伊豆守の知行分が天沢てんたく(現静岡市)に寄進されている。同九年九月三日の今川氏真判物(清見寺文書)によると、天沢寺に安堵された寺領のなかに当地の関口伊豆守知行分二四貫文がみえる。同一二年正月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)には天沢寺領指出として岩淵のうち代方二四貫文がみえる。天正八年(一五八〇)と推定される二月付の佐野泰光書下(矢入文書)によると、泰光が当地の船頭衆に富士川渡船の手配を依頼しており、当地が渡船場となっていたことが知られる。同一三年一二月二四日佐野兵左衛門尉に安堵された所領のなかに当地のうち五〇貫文がみえる(「徳川家康朱印状写」佐野家蔵文書)

慶長一四年(一六〇九)の岩淵村検地帳(富士川町史)によれば高二七三石余、田九町五反余・畑二一町余。

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]八東町岩渕いわぶち

才代さいたい村の南東、小畑おばた川沿いに立地。「因幡志」に「才代より八町許奥、小畑谷の西側にあり、此谷は入口一つにて奥は二谷に分れたり、当村は其両谷の口にあり、東の詰りを奥野村と云ふ、西は佐崎村まで九個村の間を小畑谷と云ふ」とある。二谷というのは小畑川の谷と当地で同川に合流する清徳せいとく川の谷をいう。小畑川の谷には当村を含め上流(南方)に向かって三浦みうら柿原かきはら佐崎ささきの四村、清徳川の谷には上流に向かって鍛冶屋かじや三山口みやまぐち・清徳・茂谷もたに奥野おくのの五村がある。標高は一五〇メートル前後から五〇〇メートル前後に及ぶ山深い谷で、同書に「毎村に材木を作る、又炭薪も出す、たばこもよし、牛房は郡中の名物也、又此谷に生する松茸は上方の産に同しく香気別にして国中の名産とす」と記す。

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]利賀村岩渕いわぶち

北島きたじま村の北東、利賀川右岸の山腹台地に位置し、東は山だが百瀬ももせ川筋の村へ通じる。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「利賀谷」のうちに岩淵藤次郎の名がみえる。正保郷帳に村名がみえ高一〇七石余、田方二反余・畑方六町九反余。高は幕末まで変化なし。明暦二年(一六五六)の免四ツ五歩六厘、同年以後、納所金子二〇両四匁二分余・塩硝役金子一両二匁余・手上金子一両一分余、蝋・漆・蓑・紙役金子一両一匁二分余、計二四両三匁二分余を課せられており、この代銀一貫一五〇匁余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]飯能市岩淵

入間いるま川の支流成木なりき川の右岸に位置し、東は落合おちあい村、西は下畑しもはた村、北はまえぬき村・矢颪やおろし村、南は今井いまい(現東京都青梅市)加治かじ領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方九石余・畑方一四四石余、幕府領。ほかに慶長年間(一五九六―一六一五)前ヶ貫村に当村民築地八郎右衛門が開拓したといわれる飛地八郎右衛門分七町四反余があり、幕府領(「岩淵村誌料」飯能市蔵)

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]須賀川市岩渕いわぶち

いな村の南、釈迦堂しやかどう川と江花えばな川の合流点北の平地と、その後背の台地に立地。文安五年(一四四八)須賀川城に入った二階堂為氏から浜尾尾張守が当地と大桑原おおくわはらほかを与えられたという(奥陽仙道表鑑)。台地突端のたて山に岩淵館跡がある。はじめ二階堂家臣岩淵氏が居城。天正一七年(一五八九)には館主常松縫殿助が二階堂氏に殉じて江持えもち河原で討死したという(岩瀬郡誌)

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]津島町岩淵

岩松いわまつ川に支流の増穂ますお川が合流する地点に位置する。東は山財さんざい村、西は高田たかた村、南は秀松ひでまつ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「岩淵村 茅山有、川有、日損所、水損所」と村名がみえ、干水害をうけやすい村であった。宇和島藩領。

太閤検地の石高は四七五石六斗四升七合で、耕地面積の比率は田七五パーセント、畑二五パーセント。

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]会津高田町旭三寄あさひみよせ

みや川扇状地の扇頂部近くにあり、西は仁王にんのう村、南は尾岐窪おまたくぼ村、北東は上杉原かみすぎはら村。北西一町五〇間余に小名堀込ほつこめがある。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、東尾岐組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九四石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高九九石余。化政期の家数は本村五・堀込七(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一一・人数五八(人員録)

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]小松市岩渕町いわぶちまち

かけはし川支流の滓上かすかみ川流域山間部にあり、村内を別宮べつく(現鳥越村)への道が通る。北西はなか村。正保郷帳では高二九二石余、田方九町九反余・畑方七町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三〇四石、免三ツ八分、小物成は山役一六九匁(三箇国高物成帳)。明治初年には枝村として村があり、本籍三四戸、人数男七〇・女六八、馬一、物産に実綿・麻・葉煙草・菜種・枚木・杪・繭・生糸がある(皇国地誌)。白山神社はもと加比曲かいまがりの山頂にあり善興ぜんこう寺の鎮守であったが、天保年間(一八三〇―四四)村の中央に遷座し、明治三三年(一九〇〇)八幡社を合祀した。

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]八戸市新井田にいだ 岩淵

八戸城下の東、新井田川の下流右岸に位置する。東と北はみなと村、南は新井田村、西は川を隔てて類家るいけ村・小中野こなかの村と接する。正安三年(一三〇一)のきぬ女家族書上案(新渡戸・岩大文書)に「八戸いはふち」とみえる。

藩政当初は盛岡藩に属する。元和三年(一六一七)の南部利直下知状(南部家文書)に「一岩淵」とあり、同年根城南部氏に給されている。雑書の慶安三年(一六五〇)八月一九日条に「八戸岩淵ニて為御作御舟入用ニ被遣候付右同心為遣候」と造船の記録がみえる。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に新井田通にいだどおり村のうちとして村名がみえ、高六五・一四一石、うち畑五七・一〇四石とある。

岩淵村
いわぶちむら

[現在地名]浄法寺町漆沢うるしざわ

安比あつぴ川流域に位置し、南は浄法寺村、北は松岡まつおか村。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名があり、蔵入高四石余、七ヵ年平均の免は一ツ六分三厘五毛。元禄十郡郷帳では浄法寺村に入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高八六石余とあり、新田が開けた村である。「邦内郷村志」では蔵分八六石余、家数二三・人数一五六、馬一〇〇で、「南岡本八軒、此処巡検使道、又桂清水道也、川向吉田村清水尻家八軒」とある。館跡があり松岡某の居住かと伝える。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数三二、うち本村二〇で、枝村は岡本おかもと一二。

岩淵村
いわふちむら

[現在地名]栄町岩淵

帯織おびおり村の北、曾根そね村の東に位置する。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)には、毛付八五石・荒三五石余とみえ、同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば二軒に炉役三斗が課されている。明和五年(一七六八)の宗旨改帳(大脇氏文書)によれば家数一三(本家二・名子家三・間脇家八)・人数九一(男四九・女四二)。安永六年(一七七七)の大面組郷帳(榎本善一郎氏文書)によれば、田六町余・畑九町二反余、定納石五九石余、山直銀八匁七分余、野直銭一七三文(野一反三〇〇歩)、家数一三(本家二・名子家三・間脇家八)、人数八三、御蝋実三二〇匁、漆木一九、桐二、猪子場いのこば水門懸反(排水面積)七反、橋五、社二、馬草場七反余(新堀村・福島新田と立会)、用水堰堤一を数える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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