八東町(読み)はつとうちよう

日本歴史地名大系 「八東町」の解説

八東町
はつとうちよう

面積:六七・五一平方キロ

八頭郡の東部に位置し、東は若桜わかさ町、南は智頭ちず町、西は船岡ふなおか町、北は郡家こおげ町。町域の八〇パーセントは標高一〇〇メートル前後から一〇〇〇メートルに及ぶ山林原野で、町のほぼ中央を蛇行しながら西流する八東川とその支流域にわずかに平地が開ける。主交通路はかつての若桜往来(八東往来)道筋にほぼ合致する国道二九号で、ほかに県道国府こくふ―八東線、同才代さいたい船岡線、主要地方道津山つやま智頭―八東線などがある。また八東川・国道二九号に並行して若桜鉄道が走る。

縄文時代・弥生時代の遺跡は少なく、わずかに町域北東部の山岳地帯から縄文土器石器、八東川北岸のみなみ地区・北山きたやま地区から弥生土器が出土しているにすぎないが、古墳はかつて四〇基近くが存在した。いずれも後期に属するもので、出土品は須恵器が多い。古代には八上やかみ郡に属し、同郡一二郷(「和名抄」東急本)のうち丹比たじひ曰理わたり日部くさかべの三郷の全域ないしは一部が町域に比定されている。以後の庄園・公領制下においても史料に登場する四部しぶ保・安井やすい保・小部符こべふ(小別符)日野田ひのだ保・得丸とくまる(徳丸)保・小幡おばた郷などの存在からみて、因幡国衙の管轄下にある公領が多かったようである。なお八上郡は平安末期から鎌倉初期にかけての頃二郡に分立、当地域は八東郡に属した。安井保には和銅年中(七〇八―七一五)、因幡で最初に建立されたという由緒をもつ新興しんごう寺がある。和銅年中の開創はともかく、平安末期―鎌倉初期には因幡では有数の真言寺院であった。安元三年(一一七七)三月日と文治三年(一一八七)一一月日の新興寺住僧等解案(新興寺文書)によると寺領内への検断使入部停止と甲乙人らの狼藉停止を求めており、これは源平争乱の政情不安が当地にも及んでいたことの反映であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報