屋町(読み)あしやまち

日本歴史地名大系 「屋町」の解説

屋町
あしやまち

面積:一一・四二平方キロ

郡の北東部に位置し、遠賀川の河口部を占める。同川左岸の芦屋地区と右岸の山鹿やまが地区からなり、東は北九州市若松わかまつ区、南は水巻みずまき町・遠賀町、西は岡垣おかがき町に接し、北は響灘に面する。山鹿は古代の遠賀おか郡山鹿郷(和名抄)の遺称地とされる。その後、同郷を母体に山鹿庄が成立。院政期に同庄を拠点に遠賀川流域に勢力を扶植した山鹿秀遠は、平家の有力与党となり、九州に下った平家一門を山鹿の館に迎えている。平家滅亡後、山鹿庄の代官には下野宇都宮氏の一族一品房昌寛が任じられ、昌寛の子家政が当地に下向して山鹿氏を名乗った。南北朝期になると宇都宮山鹿氏庶流の麻生氏が台頭し、当地は麻生氏の支配下に入った。「日本書紀」に散見するおか水門の後身と考えられる葦屋あしや津は、大陸との窓口であった博多と畿内を結ぶ航路の中継地として発展、一五世紀から一六世紀前半には当地の鋳物師集団が製造した茶釜が芦屋釜の名で名声を博した。なお遠賀郡は中世後期から近世初期にかけては御牧みまき郡ともよばれたが(御牧は三牧とも記した)、寛文四年(一六六四)幕命によって遠賀郡の旧称に復している。

屋町
こうじやまち

[現在地名]長崎市麹屋町・八幡町やはたまち

八幡町の西、中島なかしま川左岸にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ東西に形成され、北は本紙屋もとかみや町に隣接する。今紺屋いまこうや町との間に新紺屋あたらしこうや町がある。一六一四年(慶長一九年)イエズス会の行列が「新しか紺屋町」から大工だいく町に向かっている(アビラ・ヒロン「日本王国記」)。寛永長崎港図に「新紺屋町」と記される。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「こんや町」の「あんてれい」が署名している。のちその一部を編入。正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)に町名がみえ、箇所数四四。寛文三年(一六六三)の大火で二三六間三尺・家数四一を焼失(寛宝日記)、同一二年の間数二四七間・実箇所数四七・諸役御免箇所三(長崎県史)

屋町
うつぼやちよう

[現在地名]岐阜市靭屋町・新桜町しんさくらまち

本町ほんまち筋中央付近から南に延びる両側町。屋町・空穂屋町とも記された。北は若干東に寄って魚屋うおや町、南は米屋こめや町に至り、町南端付近西側に横町ひがしけぬきよこちようが直交する。織田信長による岐阜町建設に際して成立したという。岐阜町四四町の一で、承応町絵図に「ウツボヤ町」とみえ、東の岐阜山下(尾張藩留山)に北御殿所・南御殿所が描かれる。享保年間(一七一六―三六)の成立と推定される町絵図(徳川林政史研究所蔵)には靭屋町とある。岐阜由緒書(小林文書)には「屋町」とみえ、地子免許地反別一町一反六畝余。

屋町
くしやちよう

[現在地名]堺市櫛屋くしやひがし一丁・櫛屋くしや西にし一丁

戎之えびすの町の北にあり、大道を挟む両側町。町名について「全堺詳志」に「菅公祠前ノ街、櫛ヲ売テ招牌掲ク」とあり、町の南東に隣接する天神常楽てんじんじようらく寺門前の名産であった櫛との関連をうかがわせる。ルイス・フロイスの「日本史」によれば、安土桃山時代の豪商でキリシタンとしても著名であった日比屋了珪Cuxianocho(クシヤノチョウ)の住人で、永禄八年(一五六五)京都を追放されたフロイスは了珪を頼って堺に逃れ、当町に五年間住んでいる。さらに同九年の降誕祭は、司祭館が非常に小さかったので、櫛屋町の住民が会合所にあてていた大広間で行われたとある。

屋町
やりやまち

[現在地名]東区槍屋やりや町一丁目

錫屋すずや町の西に続く両側町で南北に善安ぜんなん筋が通る。山城伏見ふしみから移転した町で、もと伏見鑓屋ふしみやりや町と称したという(初発言上候帳面写)。鎗屋町とも記す。町名は明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図にみえる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数四一・役数四〇半役で、うち年寄分一役が無役。年寄は白銀屋茂左衛門。

屋町
たるやちよう

[現在地名]萩市大字樽屋町

西を萩城の外堀、北を今魚店いまうおのたな町に接する町人町。南は侍屋敷地を挟んで春若はるわか町。

町名の由来を「萩諸町之旧記草案」は「御打入之節、町割相成、手桶大工大玉新右エ門と云者居住す、依之桶大工悉相集町相成ぬ、以其故名目相唱へ来る」とする。また「萩市中覚書」(「山口県地誌稿」所収)には「この町に桶結大工住居せり、俗に桶結大工の四字を上下略して結大といへり、故に町の名を結田町ゆひたまちとも唱へり、又桶結大工を桶屋又樽屋とも世にいへり、故に桶屋町の名なり」とも記す。結田町はのち飯田いいだ町ともいわれた。

宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば町の長さ二八三間、家数一三五、うち本軒二七、店貸一〇三、貸屋五でほかに蔵が三ヵ所あった。

屋町
つちやちよう

中京区柳馬場通三条下ル

南北に通る柳馬場やなぎのばんば(旧万里小路)を挟む両側町。南側は六角ろつかく(旧六角小路)に面する。

平安京の条坊では、左京四条四坊一保八町東及び同四保九町西。平安中期以降は六角万里小路北。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「つちや町」とあり、寛永年間の町並図や、寛文までの絵図類はすべて仮名書きだが、寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図は「槌屋町」と記す。元禄―享保期(一六八八―一七三六)の京大絵図二点には「土屋町」とある。

延宝六年(一六七八)刊の「京雀跡追」に「ほうとうえん子供くすり 柳のはゝ三条下丁」とあり、貞享二年(一六八五)刊「京羽二重」には「保童円 宝蓮寺」とある。

屋町
つちやちよう

下京区猪熊通仏光寺下ル

南北に通る猪熊いのくま(旧猪熊小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊二保三町の東側と同六町の西側の地で、平安中期以降は猪熊小路五条坊門小路の南の地。「山槐記」治承二年(一一七八)六月三日条に「左京大夫泰惟朝臣宅高辻北猪熊西、強盗入、大夫参詣八幡之間、留守侍射殺強盗一人、又一人射留之」とあり、当町西つらから今大黒いまだいこく町にかけてがその旧宅と考えられ、同じく六月二八日条には「殿下北政所今夜可渡御右京大夫泰経朝臣宅高辻北猪熊東、依七月可有御座也」とあって高階泰経の旧宅が当町東頬から徳屋町にかけて所在した。

屋町
あめやちよう

下京区東洞院通七条上ル

南北に通る東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)を挟む両側町。南側は七条通(旧七条大路)にも面する。

平安京の条坊では左京七条四坊二保四町南、及び七条三坊三保一三町東、平安中期以降は七条東洞院大路北にあたる。「拾芥抄」によれば「大将軍堂上、一条北、西大宮西、中、高辻北、下、七条北、東洞院西、已上有三箇所」と記され、方除けの神として知られた大将軍を祀る堂が、七条北東洞院西の当町南西側にあった。

屋町
たるやちよう

[現在地名]西区江川えがわ町・押切おしきり町・花の木はなのき一丁目

巾下はばした(尾張志)または江川町筋(府城志)の、江戸屋えどや筋より大木戸までの二丁。東は江川町に、西は大木戸を挟んで押切村に隣接する(尾府全図)清須きよす越しではなく、あとから開発された町(尾張城南陌名由緒)。起立の際、桶師新兵衛が居住したことにちなみ、桶屋おけや町とよんだ。しかし桶屋町の町号は町役につき、桑名くわな町筋の桶屋町(現中区)と紛らわしいので、承応二年(一六五三)四月、樽屋町に改めた(名府予録、尾張名陽図会)

屋町
ちぎやちよう

[現在地名]中区堀川ほりかわ町・流川ながれかわ

銀山かなやま町の西に続く山陽道沿いの横町で、北に平行して東引御堂ひがしひきみどう町、南は横町で武家屋敷町の薬研堀やげんぼり。城下新町組に属した。町名について「知新集」は「屋何某といふものゝ家名によりて名付るか、由来詳ならす」と記す。

元和五年広島城下絵図は「ちぎや町」とし町間数一町三〇間。寛永二年広島町数家数改め(済美録)では本家二八軒・借家五六軒。天和の切絵図には総家数四〇、間数一一六間五歩とあり、「知新集」では石橋二、町間数一丁五間五歩、竈数五七(本竈二〇・借竈三七)、人数二〇二(男九〇・女一一二)、うち本道医一人、塗師五人、乗物師四人、指物師、傘細工・仕立物師・履物緒細工各二人、白銀細工一人をあげる。

屋町
やりやちよう

桝屋ますや町の南。江戸時代には、南北二町に分けられることが多かった。鑓屋町の南端は伏見城外堀に接しており、その堀を渡れば京町きようまちに入る。「豊公伏見城ノ図」によると、東西両側に町家地があり、北から東側町家裏に落合庄平治・高山主水・伊藤丹波守屋敷が南へ連なり、西側町家裏にも、佐野修理大夫と富田信濃守の屋敷が並ぶ。

寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図では、「鑓屋町」と記されているが、文政九年(一八二六)伏見町絵図には「北南ヤリヤ丁」と南北二町に分れて記される。

屋町
やりやちよう

[現在地名]堺市熊野くまのひがし四丁

北馬場きたばば町の東に所在。今井宗久書札留(今井文書)所収の永禄一二年(一五六九)八月二二日付今井宗久書状に「槍屋町」の名がみえる。元禄二年(一六八九)堺大絵図では大道より東へ八筋目にあたる火鉢屋町ひばちやちよう筋を挟む両頬と、一本西の山之上鍛冶屋町やまのうえかじやちよう筋の西頬をも加えた区域を「鑓屋町」と記し、町会所は山之上鍛冶屋町筋の東頬中央に所在。

屋町
たるやちよう

下京区猪熊通下魚棚下ル

南北に通る猪熊いのくま通を挟む両側町。町の北は東西に通る下魚棚しもうおのたな通、南は木津屋橋きづやばし(旧塩小路)にも面する。

平安京の条坊では左京八条二坊一保一町東側及び同八町西側、平安中期以降は塩小路猪熊小路北の地。平安京の官営市場であった東市ひがしのいちの外町にあたっていた(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「上たるや丁」とあり、寛永以後万治以前京都全図にも「上たるや町」とみえる。寛文後期洛中洛外之絵図にいたって「樽や町」となるが、寛文末洛中洛外大図には「上樽屋町」とあり、元禄末期洛中絵図以後「樽屋丁」として固定するが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「七条下ル二町メ」として「樽屋町 東側西側二町に分る」と記す。

屋町
ちきりやちよう

中京区六角通高倉西入

東西に通る六角ろつかく(旧六角小路)を挟む両側町。東側は高倉たかくら(旧高倉小路)に面する。

平安京の条坊では左京四条四坊一保一町南及び二町北。平安中期以降は六角高倉小路の西。

室町中期、この地に酒屋「良文」がいた(「酒屋交名」北野天満宮史料)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「ちきりや町」とあり、以後変化はない。「滕屋」の字があてられるのは天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成であり、その前の宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「曝屋さらしや町」とある。

屋町
たこやちよう

中京区蛸薬師通御幸町西入

東西に通る蛸薬師たこやくし通を挟む両側町。東は御幸町ごこまち通、西は麩屋町ふやちよう通。

平安京の条坊では、左京四条四坊四保一四町の北側。

年次は不詳だが八坂神社文書に、除下地并書落神領注文(折紙)として、「一、四条坊門富小路東南頬」とあり、室町時代この地は祇園社領であったようだ。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「蛸や丁」とあり、「薬師前町」の別称を一時もったが元禄以降統一。

屋町
たるやちよう

中京区姉小路堀川西入

町の中央を東西に姉小路あねやこうじ(旧姉小路)、南北に岩上いわがみ通が通る。

平安京の条坊では、町の南側は左京三条二坊二保五町北、北側は左京三条二坊六町の南にあたる。平安中期以降は、姉小路猪熊小路の東にあたる。神泉苑の域内。

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)には「姉小路猪熊東南頬 播磨 祐賢」の名がみえる。

屋町
うつぼやちよう

上京区小川通元誓願寺下ル

町の西寄りを南北に小川おがわ通が通る。南は武者小路むしやこうじ通、北は元誓願寺もとせいがんじ通。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「うつほや町」とあり、元禄末期洛中絵図には「靭屋町」と記される。「京羽二重」に、靭師喜兵衛・勘左衛門が在町していることを記すので、靭屋の集住する職人町であったと思われる。

屋町
たるやまち

[現在地名]宇和島市本町追手ほんまちおうて一丁目・愛宕あたご町三丁目

元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図には木挽こびき町とある。宇和島城の東方、本町一丁目の南に続く町。樽屋が居住していたので、この名を生じたという。

屋町
つちやちよう

中京区小川通夷川下ル

南北に通る小川おがわ通を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京二条二坊三保一三町の中央部。陽成院の敷地にあたる(拾芥抄)

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「槌屋町」とみえ、以降筆描図系では変化はない。木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図では「つちや丁」とあるが、寛永版平安城東西南北町並之図には「ならや町」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では「槌屋町」と記す。

屋町
こうじやまち

[現在地名]久留米市日吉町ひよしまち

紺屋こんや町の東にあった町。「米府紀事略」に麹屋町・糀町とある。元禄九年(一六九六)の白石火事で残らず全焼、享保一一年(一七二六)の田代火事でも全焼した(「米府紀事略」など)

屋町
あめやちよう

[現在地名]中区たちばな一丁目

長栄寺ちようえいじ町の北にある縦横の町。町屋になった時期は元禄七年(一六九四)(武道要話雑抄録)とも、正徳二年―宝暦一三年(一七一二―六三)(尾張志)ともいわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報