山鹿秀遠(読み)やまが ひでとお

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山鹿秀遠」の解説

山鹿秀遠 やまが-ひでとお

?-? 平安時代後期の武将
大伯父山鹿経政から筑前(ちくぜん)(福岡県)遠賀(おんが)郡の山鹿荘をつぐ。九州一の強弓の使い手といわれた。寿永2年大宰府からのがれてきた平家一門をかくまう。元暦(げんりゃく)2年(1185)壇ノ浦の戦いで源氏方に敗れて所領は没収され,山鹿氏はほろびた。本姓は粥田。通称は兵藤次。姓は山蛾,山賀ともかく。

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朝日日本歴史人物事典 「山鹿秀遠」の解説

山鹿秀遠

生年生没年不詳
平安末期の武将。大宰府の有力府官藤原蔵規の子孫粥田経遠の子。九国一の強弓と謳われ本拠を遠賀川河口の山鹿荘におく。寿永2(1183)年,安徳天皇以下平家一門を居城に迎え,文治1(1185)年の壇の浦の戦では,平家方舟軍第1陣の大将軍として緒戦に源義経軍を破った。<参考文献>正木喜三郎『大宰府領の研究

(正木喜三郎)

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世界大百科事典(旧版)内の山鹿秀遠の言及

【山鹿氏】より

…古代末から中世にかけて主として九州で活躍した武士。粥田経遠(かいたつねとお)の子山鹿秀遠(やまがひでとお)は大宰府府官の藤原政則を祖としており,菊池氏と同族であった。秀遠は遠賀川流域最大の豪族に成長し,平氏の方人となった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」