小路村(読み)こうじむら

日本歴史地名大系 「小路村」の解説

小路村
こうじむら

[現在地名]五箇村小路

こおり村の南方に位置する。焼杉やけすぎ道で隠岐国府に通じることから、地名は国府路より転じたとする説がある。「陰徳太平記」によれば天文元年(一五三二)一〇月小路城の箕尾十郎らは隠岐清政と対決するが、鎮圧されたという。慶長一二年(一六〇七)の越智郡検地帳に小路村とみえ、牧上畑の石盛は四斗代(島根県史)正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一二五石余・一一町二反余、畑三〇石余・一六町六反余、ほかに新田畑八石余。

小路村
しようじむら

[現在地名]寝屋川市小路・楠根北くすねきた町・楠根南くすねみなみ町・昭栄しようえい町・高宮栄たかみやさかえ町・はつ町・日之出ひので町・高宮新たかみやしん

讃良さらら郡に属し、北は高宮村、南は岡山おかやま村・すな(現四條畷市)。東部は枚方ひらかた丘陵南端の扇状地性低地で西部は平坦地、中央を南北に枚方道(河内街道)が通る。集落は東部の丘陵部に近いところにある。集落近くに蔵王ざおう(池床二町八反余)があり、同池から南の村境を楠根川が西流する。

小路村
しようじむら

[現在地名]桃山町もと 小路

最初さいしよ(二八五・二メートル)の西山麓に位置する小村で、西は市場いちば村、東は高野たかの(現打田町)、南は賀和かわ村に接する。村域内に弥生時代の土器破片が出土した元遺跡があり、また条里制の遺構も検出されている。当村と賀和村を併せた地は中世には荒川あらかわこう村ともよばれ、神田こうだ村とともに高野山領荒川庄の中心をなした地であったと思われる。近世も高野山領で、「続風土記」に村高三一四石余、家数八四、人数二三一とある。当村は南北朝時代の兵火をはじめ、度々の火災で寺社を焼失、元禄六年(一六九三)一二月にも大火のあったことが功徳聚院書状案(又続宝簡集)からも知られ、俗謡に「花や火元で小路大焼け神田田中で火をとめた」とうたわれた。

小路村
こうじむら

[現在地名]珠洲市正院町小路しよういんまちこうじ

正院村の北にあり、垣内に丸山まるやまがある。正保郷帳に村名がみえ、高五〇五石余、田二六町七反余・畑七町、新開高二九石余(免三ツ九歩二厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五七〇石、免六ツ、新開高七石余、小物成は山役二二六匁、鳥役一匁(出来)・外海船櫂役四二匁(退転)、なお敷借本米・利足は一五石であった(三箇国高物成帳)。元治元年(一八六四)の奥郡酒造人々留帳(三百苅文書)に造高六〇石の四兵衛がみえる。真宗大谷派の高福こうふく寺は貞観四年(八六二)円仁の弟子という円玄が松波まつなみ(現内浦町)に創立したのを創始とし、宝徳三年(一四五一)玄恵の帰依により改宗、のち松波松岡しようこう寺の僧が高福寺を号し、寛文八年当地に移ったという。

小路村
しようじむら

[現在地名]下市町大字小路

阿知賀あちが村東南方に位置する。天文二〇年(一五五一)五月の田地売券(楠山家文書)に「シヤウチノ百(姓)サイ五郎」とみえる。御料ごりよう郷のうち。慶長郷帳では村高一五九・三四石。吉野蔵王堂領。小路村宗旨御改帳(梅本家文書)によると、明和五年(一七六八)の人口一五七(男八五、女七二)、天保五年(一八三四)一三七(男七六、女六一)

小路村
しようじむら

[現在地名]富山市水橋小路みずはししようじ

常願寺川と白岩しらいわ川の中間の平地に位置し、北東は的場まとば村。市田いちだ古城所在地に宮の小路・的射の小路という地名があり、村名は大通りに対しての小路に由来するという(水橋町郷土史)。当初は的場の小路とよばれ、的場村の分村だったという。村内の居屋敷は浄土真宗本願寺派広仏こうぶつ寺を中心に整然と南北に並び、かつて水害によって現在地に移転する際に計画に従ってつくられたものと伝える。

小路村
しようじむら

[現在地名]東灘区本山北町もとやまきたまち二丁目・同四―五丁目・本山中町もとやまなかまち三丁目・本山南町もとやまみなみまち二丁目・同七―八丁目

北畑きたはた村の東、六甲ろつこう山地南麓の沖積地に位置する。村内を山陽道が横断する。領主の変遷は郡家ぐんげ村と同じ。慶長国絵図に村名がみえ、高一六七石余。正保郷帳でも同高。寛文四年(一六六四)の高一七一石余(寛文九年頃の「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)。天保郷帳では高一七二石余。前掲領地調では家数一六・人数一一三。

小路村
しようじむら

[現在地名]鏡町有佐ありさ 小路しようじ

下有佐しもありさ村の南に位置し、東は上有佐村・宮原みやはら(現宮原町)、西はしも村、南は中野なかの村に境している沖積地。村の西部を中道なかみち往還が南北に走る。中世には八代庄小犬こいぬ郷に属し、近世は野津手永に属した。肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)には、慶長九年(一六〇四)の項に「小路村一冊」「小犬小路村一冊」、同一二年に「小路村一冊」、寛永一五年(一六三八)の地撫帳の項に「小路村一冊」とみえる。正保郷帳に高一六〇石四斗余、うち田方一四一石二斗余・畠方一九石一斗余とあり、野津手永では村高が最も少ない村であった。

小路村
しようじむら

[現在地名]福井市小路町

東郷とうごう町の東に続く町場で、地籍は安原やすはら村と錯綜している。正保郷帳には「小路村安原共ニ」として高四四一石余を記し、元禄郷帳で分村する。同帳によれば小路村は三五四石余。福井藩領。

しろ山北麓に三社さんしや神社がある。もと酒解さかとけ神社と称し、梅宮うめのみや大社(現京都市右京区)の四座の中の酒解神(大山祇神)・大若子神(瓊瓊杵尊)・小若子神(彦火火出見尊)を勧請したもので、明治維新後改称。

小路村
しようじむら

[現在地名]甚目寺町小路

東の石作いしつくり村とほとんど一村のように連なる村。「徇行記」によれば、概高二四七石余は加藤多宮の給所。田は一〇町九反四畝余、畑は八町二反二畝余。「寛文覚書」に戸数二一、人数一三三とある。「徇行記」は「耕田不足ナル故ニ土田村・森村ノ田畝ヲ承田ス、小百姓ハカリニテ高持ノモノ大体平均セリ(中略)膏腴ノ地ニテ作物何レモヨシ、大蘆・茄子ノ類ヲ下小田井市ヘ売出ス、田面ハ一体地高ナレトモ古道村界ヘ付、二ツ寺渠ニテ水潦ヲサヽヘ潴ノ害アリ、是ハ先年久淵ト水論アリテ、漸々畠ニ墾シ水落アシクナレリ、宝暦九卯年裁許書アル由」と記し、新居屋にいや村の支邑久淵くぶちとの水論を伝える。

小路村
しようじむら

[現在地名]天理市小路町

平等坊びようどうぼう村西北に所在する環濠集落。建治元年(一二七五)の東大寺油引付(東大寺文書)に「小路をち庄 焼米(ヤイコメ)一斗八合 済合(セムカウ)十合 油一斗」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「小路庄 寄進大乗院 四町七反 十市(山辺カ)郡」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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