小浜城跡(読み)おばまじようあと

日本歴史地名大系 「小浜城跡」の解説

小浜城跡
おばまじようあと

[現在地名]小浜市城内一丁目

小浜湾に沿って南北に細長く延びる小浜市街地の中央やや北寄りにある。水城で北と南をきた川、みなみ川に挟まれる三角州に位置し、東は北川と南川を結んで外堀とし、西は小浜湾に面する。雲浜うんぴん城ともよばれた。

慶長五年(一六〇〇)九月、関ヶ原の合戦で東軍に属して功のあった京極高次が若狭八万五千石に封ぜられて入部、旧来の後瀬山のちせやま城を廃して翌六年より現在地に築城を始めた。縄張りは家臣赤尾伊豆・安養寺聞恵によるという。南川の付替えや海浜の整地には多大の労力を必要とし、また埋立には捨石として石材が使われた。年不詳二月二二日付京極氏奉行人連署状(桑村家文書)に「仍御城御本丸海手之方すていし被成御用にて、諸浦之船召よせつませ候へと、御印ニ被仰出候条、浦々之船三人乗より上之舟、一艘も不残、来廿五日ニ必々小浜ヘ参候様ニ油断なく可被申触候。則参候船ニ何いしニも大きなる石を一艘ツヽつませ候て参候様ニ可被申付候」とあり、若狭三郡浦々の船を動員したことが知られる。

小浜城跡
おばまじようあと

[現在地名]岩代町小浜

岩代町役場の北東背後にある山城跡。しも館ともよんだ。小浜川によって形成された谷底平地に、標高三〇〇メートルの山頂を削平して築いた三角状の一の郭(本丸)があり、西側に堀切をもって二段構築の二の郭、東に三の郭(西京館)、さらに周囲に数多くの郭があり、大手口は本丸の南に水の手に続いて追手坂といい、東側に石垣(打込みハギ)がある。蒲生氏時代のものとみられ、石垣は対となる西側にもかつて存在したという。

小浜城跡
おばまじようあと

[現在地名]小浜町南本町

中世城館の跡。しろ(杜絹山)の石垣などを遺構とし、上大手かみおおて・下大手などの地名が残る。日向太郎通良の後裔という小浜氏が在城したと伝える。フロイス「日本史」によれば、一五八四年(天正一二年)頃ドン・プロタジオ(有馬晴信)龍造寺隆信勢力に追詰められ、支配下の城としてはオバマ城と、その先の串山くしやま(現南串山町)があるくらいで、貧弱かつ防御設備のほとんどない城であるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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