小浜町(読み)こはまちよう

日本歴史地名大系 「小浜町」の解説

小浜町
こはまちよう

[現在地名]宝塚市小浜一―五丁目・旭町あさひまち三丁目

武庫むこ川左岸に突き出して、大堀おおぼり川に囲まれた台地上に位置する。川辺かわべ郡に属し、東は安倉あくら村、北は米谷まいたに村、西は武庫郡川面かわも村、南は武庫川を挟んで同郡伊孑志いそし村。京・山城伏見から有馬ありま(現神戸市北区)・丹波方面への有馬街道(京伏見街道)に沿った宿場町。大坂道が分岐する。

往時は瀬戸内海が深く入り込み湊だったと伝える。中世には米谷村が宿の役割を果していたが、真宗毫摂ごうしよう寺が戦国時代に創建され急速に寺内町化した。「私心記」永禄三年(一五六〇)二月一一日条によると、順興寺実従が瀬川せがわ(現大阪府箕面市)から小浜を経て有馬に入湯している。天正六年(一五七八)有岡ありおか(現伊丹市)攻めには織田信長方の陣の一つとなったが、戦火による焼失から免れたという(摂津志)。文政一〇年(一八二七)の町絵図(上中家蔵)によれば東西三〇〇メートル・南北五〇〇メートル、周囲は川や湿田・池と土塁・段丘崖などで防御されていた。元禄国絵図(内閣文庫蔵)には「安倉村之内古小浜村」が街道から外れた川辺に描かれており、集落が寺内町化に伴い移転したとも考えられる。また貞享元年(一六八四)の測量記録(「御裁許写」仲原家文書)にも「古小浜」がみえる。

延宝五年(一六七七)の小浜村検地帳(宝塚市史資料室保管)の注書によると文禄三年(一五九四)浅野長吉が検地。慶長国絵図には「小浜」とあるだけで石高は漏れており、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では小浜町とみえ高七〇石。延宝検地では高九二石余(前掲検地帳)。摂津一国御改帳では幕府領大和小泉藩預地、正保郷帳では直轄領。元禄七年(一六九四)武蔵忍藩領、文政六年幕府領となり、同一〇年から幕末まで三卿の一橋領(宝塚市史)

小浜町
おばまちよう

面積:五〇・八四平方キロ

島原半島の南西部に位置し、北部は千々石ちぢわ町、南部は南串山みなみくしやま町・北有馬きたありま町、南東部から東部にかけては西有家にしありえ町・有家町布津ふつ町・深江ふかえ町および島原市に接する。町域の北東部に普賢ふげん(一三五九・三メートル)国見くにみ(一三四七メートル)妙見みようけん(一三三三メートル)、この南西の仁田にた峠を挟んで(九四〇・二メートル)たか(七七一・一メートル)などの雲仙うんぜん山系の高峰が連なる。これらを水源とするさかい川・金浜かなはま川が西流してたちばな湾に注ぐ。町域を国道五七号・同二五一号・同三八九号が通るが、五七号は内陸部に折れて、仁田峠循環道路とともに雲仙観光の基幹路となっている。町域は雲仙天草うんぜんあまくさ国立公園の指定域内。

南端部の諏訪すわ池の近く、北有馬町域にかけて縄文時代から弥生時代にわたる原山はらやま支石墓群がある。西部中ほどの朝日山あさひやま遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、組織痕土器や屋外炉跡が発見され、同じく小浜黒谷おばまくろのたに遺跡では滑石製磨製石剣などが出土、北部の北野きたのにある山嶺では石包丁が発見されている。律令制下では高来たかく郡のうちで、「肥前国風土記」に「峯の湯」とあるように雲仙の温泉は早くから都人に知られていた。

小浜町
こはまちよう

[現在地名]西区しん町二丁目

溝渠と非常門を隔てて新町しんまち遊廓佐渡島さどしま町の南西にあり、東西の通りを挟む両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に「こはま町」と記される。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数二八・役数二九役と三分役で、うち年寄分一役が無役。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報