宮守村(読み)みやもりむら

日本歴史地名大系 「宮守村」の解説

宮守村
みやもりむら

面積:一六五・四〇平方キロ

遠野盆地の西に位置し、東から南は遠野市、北は稗貫ひえぬき大迫おおはさま町、西から南は和賀郡東和とうわ町に接する。いずれも山嶺に囲まれ峠を越えて他地域に通じる。ただし西流する北上川の支流さるいし川流域のみは平地がとびとびにある。北東端付近から達曾部たつそべ川が南流し、宮守川・塚沢つかざわ川も東から南西に流れ、猿ヶ石川に西部で合流する。北東隅にある大麻部おおまぶ(一〇四三・六メートル)をはじめとして寺沢てらさわ(七一〇・八メートル)や、東の笠通かさのかよう(八六九・二メートル)、西の黒日影くろひかげ(四四六・一メートル)北西胴具足どうぐそく(六一五・一メートル)、南西の砥森ともり(六七〇・一メートル)などが点在し、準平原の高原状をなす。

宮守村
みやもりむら

[現在地名]岩代町小浜おばま

うつし川の支流小浜川に沿う南北に狭長な村。東と北および西の一部は西勝田さいかちた村、南西部は小浜成田おばまなりた村に接する。宮森とも書いた。塩松しおのまつ地方の中心地として発展し、元禄年間(一六八八―一七〇四)には小浜町が開かれた。「相生集」などによると小浜の名称は、文明年中(一四六九―八七)石橋家臣大内備前守宗政が一城を築き、出身地若狭国小浜(現福井県小浜市)にちなみ小浜城(下館)とよんだのに始まるという。同じ頃石橋家臣大河内修理が宇都宮氏の旧城跡に宮森城(上館)をつくり、城の西麓を流れる小浜川沿いにもと町・鳥居とりい町・稗柄ひえ町などの町場を経営したのが小浜町の発祥であるという。現字名に上本町・下本町が残る。天正年間(一五七三―九二)伊達政宗が大内氏を追って塩松を支配し、本拠地を下館におき、その城下に町割を計画したが実現しなかったといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報