小松城跡(読み)こまつじようあと

日本歴史地名大系 「小松城跡」の解説

小松城跡
こまつじようあと

[現在地名]小松市丸内町・丸の内町一―二丁目・浮城町・丸の内公園町・古城町・泉町

曲流するかけはし川左岸に接し、東側を北陸街道が南北に抜ける。永禄七年(一五六四)頃と推定される一〇月一三日の朝倉義景感状(鳥居文書)に「小松口合戦」とあり、一向一揆勢の拠る砦のようなものがあったと思われる。天正四年(一五七六)一揆の部将で、もと本願寺の家臣といわれる若林長門が芦原を切開いて築城したので城ともいわれた。

天正七年織田信長の部将柴田勝家により落城し、翌八年村上義明(頼勝)城主となる。慶長三年(一五九八)豊臣秀吉の命により、丹羽長重松任まつとうから一二万石で移る。同五年の関ヶ原の戦の直前、長重は徳川側の前田利長と浅井あさい畷で戦った。戦後長重は徳川家康により封を奪われ、その旧領は前田利長に与えられた。加賀藩では小松城に城代を置いた。元和元年(一六一五)の一国一城令によりいったん破却。寛永一六年(一六三九)加賀藩三代藩主前田利常は長子光高に後を譲って隠居し、小松城を隠居城とすることを幕府に願出、許された。

小松城跡
こまつじようあと

[現在地名]会見町金田

金田かねだ南東部、宮谷みやだに地区の字吹屋ふきや、宮谷川を隔てた標高三〇メートルの俗にじよう山とよぶ独立丘にある。現在、宮谷入口の道路脇に高さ一・二メートル余の大五輪塔とその傍らに三、四基の崩れた五輪塔があり、城山山麓の竹藪から移されたものといわれ、「伯耆志」宮谷村条では「城跡、村の東の岡なり、五輪塔あれど伝詳ならず」と記される。建武三年(一三三六)六月晦日、足利尊氏方の出雲守護塩谷高貞に属した出雲国造孝時の舎弟貞教(貞孝か)は南朝方の小松城大手を攻めている(同年七月日「出雲国造舎弟貞教軍忠状」千家文書)。南北朝内乱期の城主などについては不明。

小松城跡
こまつじようあと

[現在地名]城山町川尻 松風

城山湖から東へ、さかい川支流のあな川と小松川との間に延びる丘陵の先端近くに位置する。標高約二四〇メートル。高野山真言宗宝泉ほうせん寺を馬蹄形状に取囲むように支尾根が張出していて、この一帯が城跡である。寺が所在する谷間が邸館の位置にあたり、南側に開口している。寺の前面には、近年まで谷の入口をふさぐような形で土塁が築かれていた。寺の背後の三つの小さなこぶをもつ尾根から西側の支尾根にかけて遺構が密集している。背後の尾根の三つのこぶの間には、それぞれ尾根を横切るように空堀が掘られ、腰曲輪がみられる。

小松城跡
こまつじようあと

[現在地名]川西町中小松

いぬ川右岸に築かれた連郭式の平城跡。本丸は東西九〇メートル余・南北一二〇メートル余で、本丸南に二の丸がある。初め長井氏の臣船山因幡守重家がいたが、伊達氏の置賜進入後は伊達氏家臣の大町氏が居城、その後桑折氏に代わる。天文の乱の後は牧野久仲が城主となる。久仲は伊達氏重臣の中野常陸介宗時の子で、宿老牧野家の養子となっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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