富田町(読み)とんだちよう

日本歴史地名大系 「富田町」の解説

富田町
とんだちよう

[現在地名]岡山市富田町一―二丁目

外堀と西にし川の間、東西に走る山陽道に沿って発達した町と、山陽道北側の南北の町からなる武家商人の町。東は細堀を隔て下市しもいち町・丸亀まるがめ町、南は野田屋のだや町、西は西川、北は細堀を隔て武家屋敷。寛永城下絵図では野田屋町に含まれ、慶安城下絵図では「惣二郎町」とみえる。寛文七年(一六六七)地子銀切手覚(「諸用留」国富文書)に「惣十郎町」として五一九匁余とみえる。

富田町
とみだまち

[現在地名]徳島市富田町一―二丁目・紺屋町こんやまち銀座ぎんざ

東新ひがししん(鍛冶屋町)の南東端近くから南に分れた南北の通りに沿った町人地籠屋かごや町の東に並行する。伝承によると近世初期の当町辺りは神子みこ町といい富田浦八幡宮(現伊賀町一丁目の八幡神社)に奉仕する神子(巫子)の住む所であったが、同宮社地に瑞巌ずいがん寺が建立されたため同宮が現在地に移転し、これに伴い神子も移住したという(田所眉東「粟種袋」)。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によると、富田町筋は南北の町数一町三三間、家数四八軒とある。

富田町
とみたまち

[現在地名]弘前市富田町

城の南東に位置し、松森まつもり町の角から、枡形に至る道筋の町並。町内中央を釜萢かまやち堰が縦貫する。

国日記元禄一六年(一七〇三)二月一一日条に「猫右衛門町をは松盛町、猫右衛門町末之新町をは富田町と、自今以後可申由被仰付候付、右之通丹野序右衛門へ申達」とあり、松森町から新たに成立した町であることがわかる。当初は松森町の端から釜萢堰までが町域で、六五軒の屋敷割が行われ、郡方・町方・新田方三者の支配下に置かれた(国日記)

富田町
とみだちよう

[現在地名]中区にしき二―三丁目

さくらの町と伝馬てんま町との間をいい、北は福井ふくい町、南は玉屋たまや町に続く。刀鍛冶兼常氏が住居を構えていたことにより、清須きよす時代は兼常かねつね町と称した。慶長一六年(一六一一)名古屋に移り、上本かみほん町を名乗った(金鱗九十九之塵)。万治元年(一六五八)本町四丁目となり、貞享三年(一六八六)富田町と改称。

当町の西側(現錦二丁目)に山城国伏見ふしみの大文字屋支店呉服商大丸屋下村正之助家(現大丸百貨店)があった。

富田町
とみたちよう

[現在地名]小浜市鹿島かしま

西宮前にしみやまえ町の西南にあり、北側は北西に曲折して福岡ふくおか町、西南は後瀬のちせ山から西流して小浜湊に入る小河川を挟んで石垣いしがき町、北西は二鳥居ふたつとりい町。寛永夫代帳(「拾椎雑話」所収)には甲呂木こうろぎ町とあり、南部分を山岸やまぎし町とも称したが、貞享元年(一六八四)の町割の際両町は富田町となった(拾椎雑話)石垣町との間に架かる甲呂木橋は甲呂美ころび橋ともいったという(若狭郡県志)

福岡町は貞享元年の町割で二鳥居・中西・山岸の三町を分割して成立。

富田町
とみたまち

[現在地名]姫路市十二所前町じゆうにしよまえちよう博労町ばくろうまち

姫路城南西にある福中ふくなか(初め備前門)を出た所から少し南に位置する町人町。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に「くづや町」とある。藁で葺いた屋根(葛屋)の家が多かったために葛屋くずや町と称したという(姫路府志)。元禄一七年(一七〇四)の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)にも葛屋町と記されているが、姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控に富田町の家数一四・地子銀一〇六匁余とあるので、この間に富田町と称するようになった。

富田町
とみたちよう

[現在地名]江東区佐賀さが二丁目

仙台せんだい堀南岸の町屋で、元木場もときば二一ヵ町の一。深川富田ふかがわとみた町とも称した。西は中之なかの堀を挟んで中川なかがわ町、南は同じく堀川ほりかわ町、東は西永代にしえいたい町。文政町方書上によると、元禄一三年(一七〇〇)家作御免となり町場となった。正徳三年(一七一三)町奉行支配となる。町内総間数は京間で南北が表・裏幅とも四九間余、東西は裏行一八間余、九二一坪。

富田町
とみたまち

[現在地名]丸岡町富田町

丸岡城の南西にある南北に走る通りに沿った町で、かみ・中・下の三町に分れる。西はたに町、東は石城戸いしきど町。トンタ町とも書かれた(越前国名蹟考)。寛永年間(一六二四―四四)と推定される丸岡町絵図(佐久見家文書)によれば、北から富田町上・中・下丁と記され、家数は八七、ほか正法しようぼう寺がみえる。

富田町
とみたちよう

下京区東洞院通花屋町下ル

南北に通る東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)を挟む両側町。北側は花屋町はなやちよう通に面する。

平安京条坊では左京七条四坊一保二町両側にあたり、平安中期以降は左女牛東洞院大路の地。付近には平時忠邸があった(山槐記)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「是より六条寺内弐丁目」とあり、元禄末期洛中絵図に初めて「留田丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報