富田庄(読み)とだのしよう

日本歴史地名大系 「富田庄」の解説

富田庄
とだのしよう

現広瀬町に所在した庄園。「出雲国風土記」の意宇おう飯梨いいなし郷の大部分に仁多にた三処みところ郷の一部を加え、再編成されて成立したとみられる中世的所領。「兵範記」保元元年(一一五六)一〇月二七日条に「富田御庄」とみえ、関白藤原忠通が大乗会の禄物として献じた袈裟は、中古以後当庄の負担であったという。中古がいつ頃からを意味するかは不明。ただしこの「富田御庄」が当庄であるとは断定できない。永暦元年(一一六〇)と推定される九月一五日の藤原邦綱書状(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年一〇月・一一月巻裏文書)には「出雲国富田御庄」とみえる。この書状は邦綱が摂関家家司としての立場から出したもので、摂関家領であったことが確認される。また嘉元三年(一三〇五)頃の成立とされる摂渡庄目録(九条家文書)には、宇治平等院領の一つとして「式部大輔在輔卿 富田庄 年貢鉄二千五百卅廷 莚三百枚 比皮百井」とあり、領家は菅原在輔で、藤原氏の氏長者が支配する摂渡庄であった。当庄は他の中国山地沿いの庄園に比しても多量の鉄を負担している。

文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一三番には「富田庄九十九丁四反六十歩信濃前司」とみえ、出雲・隠岐両国守護であった佐々木泰清が当庄の地頭であった。承久の乱後、泰清の父義清が出雲・隠岐両国守護となっており、当庄も義清が承久の乱の恩賞として獲得したものと推定される。なおこの結番帳には六番に「富田新庄比田三十丁村上判官代入道」もみえる(→比田。出雲国守護職を継承した泰清の子三郎頼泰が塩冶えんや(現出雲市)を支配して塩冶氏を称したのに対して、富田庄は四郎義泰に譲られ、その系統は富田氏を名乗っていく(続群書類従本「佐々木系図」)。義泰の子師泰は建武元年(一三三四)八月の雑訴決断所結番交名(続群書類従)に三番東山道の職員として「佐々木佐渡入道 如覚」とみえ、伯耆船上せんじよう(現鳥取県赤碕町)の戦いでの恩賞として建武政権で雑訴決断所の寄人に登用された。

富田庄
とみだのしよう

名東郡にあった奈良春日社領の庄園。吉野川河口部南岸の現徳島市中心部一帯と津田つだ地区にかけての地域に比定される。西は安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領名東庄、北は吉野川、東は海、南は八万はちまんおよび勝浦かつうら庄と接していたとされる。名東庄との堺は一九条西縄とされ(元久元年九月日「富田庄立券状案」春日大社文書)、条里の復元によって現在の徳島市佐古一番さこいちばん町付近にあったと考えられる。また八万との堺にあったとされる「勢因峯」は現在の勢見せいみ山のこととみられる。

建仁四年(一二〇四)二月一七日、奈良春日社領の名東郡南助任みなみすけとう保と以西いさい津田島つだじまをもって一所の庄園として立庄することが朝廷から承認された(「官宣旨案」春日大社文書)。この両所は阿波国住人前右近衛将監粟田重政と前右兵衛少尉藤原親家が受領級の貴族とみられる大江泰兼に寄進、泰兼がさらに春日社に寄進したものであったという。朝廷によって立庄が認められた時、二つの社領を総称する庄園名として新たに富田庄と名付けられ、元久元年(一二〇四)現地において坪付の確認と示の設定が行われた(前掲富田庄立券状案)。これによって当庄は正式に奈良春日社を本家、大江泰兼を領家、粟田重政・藤原親家を庄官とする庄園として成立した。成立時の当庄は耕地面積五二町三反一八〇歩、うち田八町三反六〇歩・畠一三町五反一二〇歩・常荒三〇町五反、在家八宇のほか、沢・江・河・池・山があり、田畠は一九条六里―九里、二一条九里、二二条八里の釘貫・松江、田宮たみや(現南田宮・北田宮)・牛寺など、二〇条七里の寺嶋てらしま(現寺島本町西付近)・仏師嶋、いの(現徳島町城内付近)、苔谷と、津田島(現津田町・津田本町付近)知岐礼ちぎれ島に散在し、寺嶋以降に記された地域には荒田はほとんどなく安定した耕地であったが、全体的には常荒が三〇町五反にのぼっており、大河川河口部に位置した低湿地庄園の耕地の不安定さを如実に示している。

富田庄
とみたのしよう

現中川区富田とみだ町と海部あま蟹江かにえ町・大治おおはる町・七宝しつぽう町辺りに比定される。寛治年間(一〇八七―九四)太政官符により四至を定め立荘された荘園で、鎌倉時代末期の絵図によれば、庄内川下流域に形成された三角州の先端に開かれ、低湿な水田地域と未開の荒野からなり、南辺で海岸線に接していた。

康和五年(一一〇三)右大臣藤原忠実の家領としてみえて以来(朝野群載)、一四世紀末までおおむね近衛家領として続いた。この間、一三世紀末には荘内の飛地北馬嶋領家職について、姉小路実文が別相伝していることが知られ(正応三年九月一二日付「六波羅下知状」円覚寺文書)、また建武政権下では一時期後醍醐天皇の妃新待賢門院阿野廉子が領家職を領した。藤原忠実は康和五年平季政を下司職に補任している(朝野群載)が、鎌倉時代に入っては、嘉暦二年(一三二七)五月一八日付富田庄領家雑掌契状(円覚寺文書)に「於(領家)年貢者、任承元五年北条殿(義時)御請文可有沙汰之処云々」とあり、地頭職は北条氏の占めるところとなり、承元五年(一二一一)北条義時が地頭請を成立させた。弘安六年(一二八三)地頭職は北条時宗から鎌倉の円覚えんがく寺に寄贈された。

荘務権は当初領家側にあったが、承元五年の地頭請を期に地頭の年貢未進・押領などが増し、嘉暦二年再度地頭請が行われた。

富田庄
とみだのしよう

近世の寒川さんがわ郡富田中・富田東・富田西三村を遺称地とし、現在の大川町域を中心として一部白鳥しろとり町・寒川町域も含んだとみられる。皇室領。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)に「字富田庄、在讃岐国寒河郡内」とみえ、鳥羽院の御願寺である京都安楽寿あんらくじゆ院領として天皇家が本家職を伝領した。同牒案に四至は「東限大内郡堺 西限石田郷内東寄艮角西船木河并石崎南大路南泉畔 南限阿波国堺 北限多和(崎)神前雨堺山峯」と記され、東は大内おおち郡、南は阿波国と境を接し、西は寒川郡石田いしだ(現寒川町)のうち東寄りの部分を含み、北は同郡内の多和たわ(現津田町)の尾根、神崎かんざき(現寒川町)の雨堺山(現在の雨滝山であろう)の峰を境としている。おそらく当庄は「和名抄」にみえる寒川郡所管七郷のうち、他史料上にあらわれない難破なは郷の地を中心に立庄されたものであろう。また富田庄を含む八庄は「領主等或領掌年尚、或相伝有理、各注由緒、寄入院家、仍任公験理立券畢者」とあるので、当庄は領主の寄進により、立庄され安楽寿院領となったものである。

富田庄
とんだのしよう

臼杵郡内に所在した豊前宇佐宮領庄園。現日向市日知屋ひちや細島ほそしま一帯に比定される。現新富しんとみ上富田かみとんだ・下富田付近に比定する説は誤り。宇佐大鏡によれば、当庄は永承年間(一〇四六―五三)に国司海宿禰為隆が宇佐宮の封民一五人の代として荒野を開作し宇佐宮に寄進したもので、初め定田五五町であったという。その後減じて四四町となり、この所当例済物は重色(米)八八石・軽色(絹)八八疋・田率綿三三両・桑代絹一二疋・帷布一段・贄の鯛白干三〇隻、ほかに放生会料として斑幔八帖・上莚一五枚・次布二反、万灯会料として油一斗二升・凡絹五疋・相撲人二人、御調物として紙五〇帖・心太三斗を負担していた。

富田庄
とみたのしよう

庄内に柏尾かしお郷・天万てま郷などがあり、庄域は現西伯町福成ふくなりの柏尾を含む法勝寺ほつしようじ川中流域から、会見町天万てんまんを含む同川支流の小松谷こまつだに川西岸一帯に比定され、一部は現米子市南部にまで広がっていたと推定される。「大山寺縁起」によれば寛治八年(一〇九四)大山地蔵会の頭役の負担を命ぜられた「富田ノ庄司」が大山西明さいみよう院の恵明房が勤めるべきだと頭役を拒否したことから大山三院の紛争に発展、西明院衆徒は恵明房の主張を支持し、中門ちゆうもん院・南光なんこう院両院の衆徒は富田庄司を支援して強訴となった。

富田庄
とんだのしよう

富田台地に展開した庄園。康平六年(一〇六三)五月二〇日に注された山門妙香院庄園目録(華頂要略)に、島上しまかみ郡富田庄がみえる。同目録に引かれた応和元年(九六一)六月五日の九条師輔譲状によれば、当庄は師輔から良源の弟子となった子の尋禅に譲られ、他庄園とともに比叡山妙香院に寄進された。室町時代になると、室町幕府御料所としての富田庄が現れる。応永一一年(一四〇四)足利義満は光有なるものに御料所富田庄の知行を命じている(同年七月一三日「足利義満御判御教書」烏丸家文書)。光有は烏丸家の本家筋にあたる日野有光のことと思われる。文明一九年(一四八七)にも富田庄は室町幕府の御料所としてみえる。

富田庄
とんだのしよう

現びわ町富田・北富田付近にあった庄園。天元三年(九八〇)二月二日の某寺伽藍縁起資財帳(金比羅宮文書)に「富田庄田四町 畠一町 山十二町山北」とみえ、京都の某寺領であった。この寺は奈良東大寺僧朝南が建立し、甥の印聖に譲られた後、延長六年(九二八)仁延に付属され、その死後のこの年弟子忠印を長吏として譲られたとあるので、庄の成立は一〇世紀初頭にさかのぼるものと考えられる。下って永和二年(一三七六)九月六日、当庄内にあった京都仁和寺南院領の田地三町五段が速水はやみ(現湖北町)地頭代によって押妨されている(「室町幕府御教書案」仁和寺文書)

富田庄
とんだのしよう

白浜町の東部、富田川下流域と考えられる。熊野那智山領。文永三年(一二六六)五月二八日付後嵯峨上皇院宣(中村直勝氏旧蔵)に「那智山領富田」とある。康安元年(一三六一)四月七日付足利義詮感状(湯河家文書)に「去年五月一日以来紀州富田庄合戦之時」、延文五年(一三六〇)六月一日付畠山義深宛行状(小山文書)に「参御方致合戦云々、然上者富田庄内自河東地頭領家沙汰人等之跡行料所者也」とあり、南北朝内乱期に足利政権、守護勢力にくみし、付近のたいら城合戦で戦功のあった国人層の久木八郎(小山氏)に荘内の土地を宛行っている。

富田庄
とみたのしよう

荘域は、九頭竜くずりゆう川と真名まな川に挟まれた土布子つちふご新河原しんかわら森目もりめ麻生島あそうじま川島かわしま富島とびしまくち田野たの上野うわの土打つちうち七板なないた下唯野しもゆいの蕨生わらびよう木落きおとしの一帯に比定される。建武二年(一三三五)七月一二日付の諸庄園目録(西園寺文書)に「越前国富田庄」の名があり、西園寺家領と考えられるが、ほかに領有関係を示す史料をみない。

富田庄
とみたのしよう

遺称地は不明であるが、河辺かわなべ郷・弘野ひろの(広野郷)高野たかの郷の存在から加茂かも川右岸および広戸ひろど川に挟まれた河辺から福井ふくい一帯に比定される。建治二年(一二七六)頃と推定される某書状断簡(兼仲卿記裏文書)によると、当庄濫妨のことを大炊御門信嗣が訴えており、あるいは大炊御門家が領家職を所持していたとも思われる。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に大宮院(藤原子)領とみえ、前左兵衛督五辻親氏知行の河辺郷と五辻宗氏知行の弘野高野郷が記され、前者は年貢二万疋とある。

富田庄
とみたのしよう

現西脇市の北部、富田町を遺称地とする。寛正五年(一四六四)一一月七日に細川氏御局が寒川彦左衛門尉光次から「播州たかの郡とみた地頭方公文職」を買得したが、後日に紛争が生じ、御局の雑掌が室町幕府に訴えた。文明六年(一四七四)一二月二三日、幕府は買得地を安堵し、御局代官赤松本郷五郎に所務を行うよう下知した(「政所賦銘引付」親元日記)。本郷五郎は在京の赤松氏一族である。「晴富宿禰記」明応二年(一四九三)四月一〇日条には西仙さいせん寺の所在を富田庄内と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報