宮後村(読み)みやうしろむら

日本歴史地名大系 「宮後村」の解説

宮後村
みやうしろむら

[現在地名]江南市宮後

前野まえの村の西にあり、村の東境を木津一こつついち枝古えだふる(現丹羽用水)が流れ、この西側に人家が建並ぶ。かみきり・中ノ切・本郷ほんごうと三区に分れ、砂場すなばという支郷が村の西にあり、現在も字名として残る(天保村絵図)。永正一三年(一五一六)の森民部丞広吉売券(曼陀羅寺文書)に「すなばの三郎右衛門殿」、天文一六年(一五四七)の曼陀羅寺祠堂年貢注文写(同文書)に「百文色ニ宮後ノ伊勢ノ御師ヘ被参候」とみえる。

宮後村
みやごむら

[現在地名]明野町宮後

観音かんのん川左岸の台地上にあり、南は宮山みややま村、西は田宿たじゆく村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高七百十三石五斗 此内九十石七斗九升 荒 定納九十三貫四百六文 宍戸預り宮子」とあり、佐竹氏領であった。江戸時代は旗本領元禄郷帳には村高一千四六四石余、天保郷帳には一千五一二石余とあるが、明和三年(一七六六)の御知行所石高帳(島田家文書)には、西宮後にしみやご村五〇〇・二一八石、東宮後村五一一・〇六二四石、勝宮かつみや村四〇一・七四二一石とあり、明和期には勝宮・西宮後・東宮後各村は独立している。

宮後村
みやのうしろむら

[現在地名]井口村宮後

赤祖父あかそぶ川扇状地の末端で、小矢部おやべ川の支流山田やまだ川の段丘上に耕地集落があり、東は池尻いけのしり村、南西は井口村。元和五年(一六一九)の家高新帳では「しやはミ与」に属し、「四間 宮後」とある。正保郷帳では高五七七石余、田方三七町五反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四五〇石、免五ツ二歩、小物成は山役三四匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年以降井口組に属した。

宮後村
みやうしろむら

[現在地名]一宮市今伊勢いまいせ宮後みやうしろ

東は新神戸しんかんべ村に接し、「府志」や「尾張志」では宮後新田村とする。「尾張国地名考」に「村落の正南に二町余の社地あり野見のみの神社といふ此宮の北にあるが故に宮うしろと呼有」と記している。天保村絵図をみると馬寄うまよせ村境にかけて七基の塚を描いている。「今伊勢町史」は明治の末年までは七基の塚があったとし、野見古墳・でんやま古墳など合わせて一五基の古墳を推定している。

「寛文覚書」によると、概高は二五八石余、田六町六畝余・畑一〇町四反六畝余、天保村絵図によると蔵入地は一九石余、残り二三八石余は六人の給知となり、新田一三九石余は蔵入地。

宮後村
みやのうしろむら

[現在地名]田浦町田浦

田浦村の東にあり、北は赤松あかまつ村、東は横居木よこいぎ村、南は岩屋河内いわやかわち村に接する山村。村の東部鶴口つるぐち峠は田浦から横居木を通って球磨地方と結ぶ通路であった。また西端部には田浦城跡があり、寺床てらとこ神の迫かみのさこなどの地名も残り、村名とともに古い時代の要地だったことをうかがわせる。

宮後村
みやうしろむら

[現在地名]秦荘町宮後

島川しまがわ村の東にあり、南はおき村。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に宮ノ後村一二〇石余とある。文久二年(一八六二)上知。しかし彦根藩預所として明治維新を迎えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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