下宮守村(読み)しもみやもりむら

日本歴史地名大系 「下宮守村」の解説

下宮守村
しもみやもりむら

[現在地名]宮守村下宮守

現宮守村の中央部西端に位置し、北東から南西に流れる宮守川が西方村外れさるいし川に合流する。北東方宮守川上流は上宮守村。同村で遠野街道と分岐して花巻に向かう道が通る。集落は宮守川・塚沢つかざわ川・達曾部たつそべ川沿いに点在する。下宮森村とも記され、古くは上・下の宮守村は一村で宮守(宮森)とよばれた。村名の由来は、源義家が南方砥森ともり(六七〇・一メートル)頂上に日本武尊を勧請して安倍貞任との戦いの勝利を祈願、戦勝後は末代まで宮を守ると誓ったことによると伝える(宮守村誌)。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが、うち下六郷の一郷として宮森があったという(阿曾沼興廃記)。慶長一九年(一六一四)八月三日の吉田作内宛南部利直免許状(鬼柳鈴木文書)に「宮森」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報