天神神社(読み)てんじんじんじや

日本歴史地名大系 「天神神社」の解説

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]福知山市字多保市

多保市とおのいち集落の北端大池おおいけ北方に南面して鎮座。いわゆる六人部むとべ七天神のうちの第一番で、江戸時代には七天神いちやしろと称した。祭神国常立尊。旧村社。

六人部郷には、古来「七天神」と称し、その一ノ社は多保市村に国常立尊、二ノ社は草山くさやま(現天田郡三和町)に国狭土尊、三ノ社は大内おおち村に豊斟淳尊、四ノ社は田野たの村に宇比地邇尊・寸比地邇尊、五ノ社は生野いくの村に大戸之道尊・大戸之辺尊、六ノ社は岩間いわま村に面足尊・惶根尊、七ノ社は同村小字小野おのに伊佐奈岐尊・伊佐奈美尊を祀ってきた。ただし最後の七ノ社は近代に六ノ社の境内へ移したので、現在は六ヵ所となっている。

由緒は、古代には六部むとべ郷のみならず、宗そかべ郷・雀部ささいべ郷も、ほり村の荒木あらき神社(天神七代・地神五代を祀り、十二社権現という)を産神と仰いだと推定されているが、のち天神七代のみを六人部郷で祀るようになったと伝える。

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]山城町神童子 不晴谷

祭神は天八百日あめのやおひ命・天三下あめのみさがり命。旧村社。草創年代は不詳であるが、役小角が金剛蔵こんごうぞう(現山城町神童寺)創建の時に鎮守神として勧請したと伝える。本殿は三間社流造、室町時代の造営で府指定文化財。祭礼は一〇月一七日。境内左の杉木立のなかに十三重石塔(国指定重要文化財)があり、台石に「右志者 為父母先師 法界衆生 平等利益 造立□□ 建治三丁丑十月三日」と刻銘がある。本殿左方の崖際には、三八所如法経の文字を塔身に刻んだ鎌倉末期とみられる石造多宝塔がある。

なお神童じんどう寺の伽藍神であった勝手かつて社・子守こもり社は明治六年(一八七三)に当社内に移された(京都府地誌)

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]幸手市天神島

倉松くらまつ川右岸にある。祭神は菅原道真。旧村社。応永七年(一四〇〇)二月二五日銘の棟札に「奉再興天満宮」「天神坊中興良算」と彫られていたという(風土記稿)。荏柄天満宮縁起(愛知県荏柄天神社文書)によると、関東管領上杉氏に抵抗する足利成氏は居所を下総国古河に移し、成氏に従った一色氏は鎌倉の荏柄えがら天神を供奉し祀ったという。同縁起の奥書には元禄一一年(一六九八)九月の年紀があり、「別当満福寺中興法印匠仙 一色数馬直興代也」とある。別当満福まんぷく寺は荏柄山と号した。享和元年(一八〇一)二月京都北野天満宮の別当妙蔵院が満福寺に宛てた下知書(社蔵)によると、宝暦二年(一七五二)の菅公八百五十年忌の際、諸国に雷の災いがあったため、享和二年の九百年忌には雷除けの神影を家ごとに祀る万人講を結成するよう申渡している。

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]岐阜市長良

高富たかとみ街道(北美濃街道)の東側に位置。通称長良天神天満宮。江戸時代の上福光かみふくみつ村・真福寺しんぷくじ村・中福光村の入会地にあたり、長良三郷の総社とされた。祭神菅原道真。美濃国守護代斎藤氏一族が祀ったといわれ、加納かのう忠節ちゆうせつとともに現岐阜市の三天神という。崇福そうふく寺の縁起では、文明元年(一四六九)斎藤左衛門尉長弘が自分の屋敷を崇福寺に建替えた折、丑寅の方角に天満宮を建てたとされる。

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]豊玉町佐保

古くは天神宮と称した。祭神は菅原道真。応仁三年(一四六九)佐保さほの「天神」に「すゝへのはたけ」が寄進され、「一のミやうふ」(命婦)に「仁位郡之内小尾発物左衛門太郎」の女姫一直が任じられている(同年五月三日「玄心預ケ状」仁位郷判物写)。文明三年(一四七一)にも「左尾」の一直が任じられ(同年九月二七日「宗職家預ケ状」同判物写)、同一六年神領の四至が確認されて「天神宮」の明舞方に安堵された(同年八月二二日「宗職家寄進状」同判物写)

天神神社
てんじんじんじや

[現在地名]安堵町大字窪田小字大明神

大和川北岸の堤防下に鎮座。祭神天津彦根あまつひこね命。左下大明神御頭役次第(石田家文書)によると、在地土豪中氏が筒井一門の山田氏を養子とした際、筒井順盛の命により筒井氏氏神を勧請したもので、中氏が氏神として祀った。北方約一〇〇メートルに中家・石田家がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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