窪田村(読み)くぼたむら

日本歴史地名大系 「窪田村」の解説

窪田村
くぼたむら

[現在地名]松山市久米窪田町くめくぼたまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は水泥みどろ村、西は来住きし村、土居どい(浮穴郡)、南は高井たかい(久米郡)、北は鷹子たかのこ村に接する。村の北部を小野おの川が西流する。この村は、初め日瀬里ひぜり・窪田の二村であった。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の久米郡の項に「日瀬里村 日損所」「窪田村 日損所」とある。二村の存在は元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記および明和八年(一七七一)改の「久米郡手鑑」によって確認される。その後、二村は合併して日瀬里村と称したが、文政年間(一八一八―三〇)に窪田村と改称された。

古代には、久米郡吉井よしい郷に属したと推察され、中世には、河野氏の統治下にあった。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]津市大里窪田おおざとくぼた

一身田いつしんでん村の北西にある丘陵地の裾野にある。村域中央に伊勢別街道が縦走し、集落は街道に沿う。平城宮出土木簡に「伊世国奄伎郡」(表)、「久菩多里私部□□」(裏)とある。「和名抄」に記される「窪田郷」は当村を中心とした郷と推定され、中世にはこれが窪田庄となり、次いで伊勢神宮へ寄進されて「神鳳鈔」記載の「本御贄窪田御厨三石、六九十二月」ともなったとみられる。慶長初年頃には当村は、奄芸あんげはやし(現安芸郡芸濃町)城主織田民部少輔信重の配下となった(森徳蔵氏旧蔵文書)が、信重が改易された元和元年(一六一五)以後、大坂の役の恩賞として津藩領となったとみられる。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]米沢市窪田町窪田

中田なかだ村の北に位置し、まつ川西岸の低平地に立地。戦国期には上長井のうち。天文一一年(一五四二)出羽国の住人頼清が大乗妙典六六部聖を奉納したとの銘がある経筒が窪田経塚から出土している。同七年の段銭古帳によれば上長井庄のうち上窪田から二二貫三〇〇文、下窪田から一一貫一五〇文(うち一貫二〇〇文は中館へ)を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、牧野弾正左衛門が窪田郷ほか本領・加恩ともに守護不入を認められた。そのほか上長井窪田のうちを中野常陸介が黒田二郎衛門より買地の「さゝハら在家」を安堵され、湯目丹波守が切田七〇〇刈、鯨岡大蔵少輔が遠藤監物分「ほりくち在け」、安積金七郎が「おかの在家」「たか在家」、樋口十郎右衛門が「えくほ在家」一軒などを与えられている。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]足利市久保田町くぼたちよう

渡良瀬川右岸に位置し、北は加子かこ村・茂手木もてぎ村。久保田とも記す。嘉暦三年(一三二八)一一月四日の足利庄窪田年貢結解状(武本為訓氏所蔵文書)に足利庄「窪田」とみえ、年貢一〇〇貫文(うち定銭六〇貫文)のうち二〇貫文が同庄公文所に納入されている。嘉吉二年(一四四二)には「西窪田郷」として鑁阿ばんな寺の三月八日仏事銭を負担しているが(同年六月八日「鑁阿寺仏事銭請取状案」鑁阿寺文書)、文明一五年(一四八三)の鑁阿寺仏事銭請取注文案(同文書)によると、三月八日仏事銭とは「赤御堂殿御迎」の負担で、当時は不知行であった。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]佐和田町窪田

西南は真野まの湾に面し、北西は五十里炭屋いかりすみや町、北は青野あおの村、東は河原田諏訪かわはらだすわ町。近世には小木おぎ街道(現県道相川―新町線)の交通の要地であった。元禄七年(一六九四)の一札(加藤浩氏蔵)によると、青野村境の惣口坂の宿継場を当村との村境とするとされた。元禄期頃の村明細帳(森谷山城氏蔵)によると、田二八町一反余・畑一二町六反余。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]久保田町大字久保田

長崎街道に沿う街村で、戦国時代には久保田宿があった。徳万とくまん村の西に位置する。

「太宰管内志」の佐嘉郡に「下田村」があり、「下田は久保多と訓ムべし(中略)名義は上田あげたに対へる下田にて低き処に有る田なるべし」という。「肥前風土記」の佐嘉郡に「有土蜘蛛大山田女・狭山田女二女子云、取下田村之土、作人形馬形」とある。下田を「くぼた」とよめば初見は奈良時代になるが、佐賀郡梅野山うめのやま(現大和町)の小字に下田しもたがあり、風土記の下田村は梅野山のほうが地理的に有力視される。

平安時代末、この地の統治者として窪田因幡守藤原利常・窪田太郎高直の名前が伝えられるが定かではない(久保田町史)。文治二年(一一八六)の後白河院庁下文(河上神社文書)に「海宿禰重実所領、為窪田(太)郎高直南二郎季家□□被押取事」とみえる。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]いわき市勿来町

蛭田ひるた川左岸にあり、北東は大高おおたか村、北西は三沢みさわ村、南西は白米しろよね村、南は酒井さかい村。文安四年(一四四七)一〇月二〇日の白河殿宛の刑部大輔昌隆押書(遠藤白川文書)に「窪田小河之事、就諸事、不可有子細候」とある。大永元年(一五二一)国魂くにたま神社鐘銘(天明元年改鋳)に「陸奥菊多郡窪田 国玉大明神御神前」とみえる。天正九年(一五八一)二月三日の東義久書状(秋田藩家蔵文書)によれば、「窪田十二貫文之所」が佐竹家中の大縄讃岐守に与えられている。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]栃木市久保田町くぼたちよう

藤田ふじた村の東に位置し、村の北東部に大膳部という地名がある。北は寄居よりい村・大宮おおみや村。久保田村とも記される。建武三年(一三三六)一二月二七日の光厳上皇院宣(壬生家文書)に「下野国戸矢子窪田保」とみえ、主殿寮領であった。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領であったと思われる。慶安郷帳に村名がみえ、田二八八石余・畑一一二石余で下総古河藩領。元禄郷帳では高四三四石余で旗本根岸・小笠原・諏訪・鳥居などの六給。改革組合村では家数一六。元禄一〇年(一六九七)頃より壬生みぶ飯塚いいづか宿(現小山市)の定助郷を勤めた(享保四年「壬生宿助郷帳」鈴木貞一文書)

窪田村
くぼたむら

[現在地名]貝塚市窪田

近木こぎ川左岸、つつみ村の西隣の平野部の村で日根郡に属する。字小薬師こやくし(古ヤクシ)より古瓦が出土し、平安末―鎌倉時代の寺院の存在をうかがわせる。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の根来・雑賀攻めでは集落の周囲に堀を築き、矢倉を設けてこれに備えた(安井家所蔵絵図)。江戸後期の和泉郡村記(中之島図書館蔵)には当村に根来勢の出城があったと記す。中世は近木庄に含まれた。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]加西市窪田町

西谷にしたに村の南西、下里しもさと川の支流千歳ちとせ川の上流域にある。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「くほた村」とみえ、木下家定は豊臣秀吉から同村の二七石余などを宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳など)、延宝六年(一六七八)下総佐倉藩領となる(同七年「年貢免状」山下家文書など)。以後の領主の変遷は市場いちば村と同じ。慶長五年(一六〇〇)の年貢免状(同文書)では高二四〇石。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]安堵村大字窪田

大和川北岸、奈良盆地標高最低の湿地帯に立地。上窪田・中窪田・下窪田・北窪田・板東いたひがしなどの垣内に分れる。下窪田は俗に平楽寺へいらくじと称し、「安堵村史」所収の寛文一三年(一六七三)平楽寺記録には「平楽邑」と記す。

文禄四年(一五九五)検地奉行は矢羽伝兵衛。慶長郷帳の村高六六四・一六石、のち六六四・一六四石。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領、寛永一六年(一六三九)村高のうち五二七・六石は有馬左衛門佐内儀領、ほかは幕府領となる。有馬左衛門佐内儀とは徳川家康の養女(本多忠政の女)で、慶長一五年有馬直純(左衛門)に配する時、美濃国で粉粧料一千一〇〇石の知行を得たが、のちこれを大和国に移された。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]由利町久保田くぼた

子吉こよし川の中流右岸、東は五十土いかづち村、北は前郷まえごう村、西は川を隔てて川向かわむかい村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二五〇石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳に「高弐百弐拾四石八斗六升 久保田村」とある。天保郷帳に三〇一石九斗五升九合とあり、新開が進められ、灌漑用水として曲沢まがりさわ堰がおもに利用された。

窪田村
くぼたむら

[現在地名]朝日町窪田

ふな川右岸にあり、北は舟川新ふながわしん村、東は三枚橋さんまいばし村、西は小杉新こすぎしん(現入善町)、南は金山かなやま村。正保郷帳では高一八八石余、田方一二町二反余・畑方三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二三三石、免四ツ五歩、小物成は野役三六匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)

窪田村
くぼたむら

[現在地名]社町窪田

加古川とその支流千鳥ちどり川の合流点にあたる同川南岸に位置し、東は家原ええばら村。久保田村とも記される(元禄一四年「浅野赤穂分家済美録」浅野家文書)。慶長国絵図に「くほた」とみえる。正保郷帳では窪田村と記され、赤穂藩領、田方一四七石余・畠方一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報