大通寺(読み)だいつうじ

精選版 日本国語大辞典 「大通寺」の意味・読み・例文・類語

だいつう‐じ【大通寺】

滋賀県長浜市元浜町にある真宗大谷派の別院。山号は無礙智山。正称長浜別院大通寺。寛永一六年(一六三九)宣如(せんにょ)創建本堂広間伏見城遺構で、客殿の含山軒の襖(ふすま)絵は狩野山楽の筆。長浜別院。長浜御坊。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「大通寺」の解説

大通寺
だいつうじ

[現在地名]南区西九条比永城町

源実朝の妻(坊門信清の女)が実朝の菩提を弔うために建立した遍照心へんしようしん院の寺基を継いだ寺。真言系単立。万祥山遍照心院と号し、本尊宝冠釈迦如来。もと六孫王ろくそんのう(現南区)の北に所在した。遍照心院は真空を開山として創建。源氏ゆかりの寺として、鎌倉・室町幕府将軍の庇護を受け、豊臣・徳川両氏もこれにならって寺運の隆盛をみた(「都林泉名勝図会」など)。中世には寺辺にいくつかの領地を有していたらしく、応永二年(一三九五)一〇月には、しお小路朱雀すざく田地一町半をめぐって山城醍醐寺理性りしよう院と相論し(東寺百合文書)、同二〇年一〇月二七日には、西八条左右京職巷所が遍照心院に安堵されている(同文書)

大通寺
だいつうじ

[現在地名]北条市下難波

腰折こしおれ山の麓にある。安楽山と号し、曹洞宗。本尊は大通智勝仏。

由緒書によれば河野六郎遠江守通朝(貞治三年没)開基とされる。「新編温泉郡誌」には貞和年中(一三四五―五〇)の創建とある。「予章記」に「其後河野所居ヲ捨テ一伽藍建創セラレケル、其時分難波ノ大通寺ニハ、大燈禅師南浦孤帆ヲ揚テ東軒法幢ヲ建」とある。一伽藍は善応ぜんおう寺をさすので、大通寺はほぼ同時代の創建であろうか。開山は「伊予古蹟志」に大暁の営む所とあり、「為伽藍七堂子院七舎河野通朝香花院」と記され、壮大な規模を有した。

大通寺
だいつうじ

[現在地名]観音寺市原町 大通寺

豊田小学校の東側に位置する。東面山と号し、天台宗。本尊薬師如来。「西讃府志」には「本尊釈迦多宝ノ二尊、大師堂元三大師准三后公弁親王ノ筆、左右ニ不動愛染ノ二明王ヲ安置ス」とあり、開山は日通、高井下総守の建立、もと法華宗で小立岡こたておかにあったが、日通から九世ののちの日光のとき現在地に移した。その後延宝三年(一六七五)一二世尊順のとき天台宗に改めたと記す。寺田六石余(同書)。元禄六年(一六九三)の坂本組寺社帳写(観音寺市誌)によれば本寺は毘沙門堂(現京都市山科区)、寺領一町七反余(御免許)、松林一町八反余(御免許)

大通寺
だいつうじ

[現在地名]兼山町 魚屋町

兼山町北東部、旧戸立とたて町の木曾川の崖上にある。補陀山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。斎藤正義の烏峰うほう城築城以前、永正二年(一五〇五)加茂郡細目ほそめ大仙だいせん(現八百津町)の二世大雅により創建されたと伝える。美濃国三十三観音の第三〇番札所の戸立観音堂は当寺門前にあり、本尊は如意輪観音。「濃陽志略」には本尊は自然岩石で、三間四面の堂は岩で構成されるとし、かつて観音が女子の姿で現れたが、人が悪戯をしたため岩の陰に隠れ去り、その岩が戸のようであったことから戸立観音と名付けられたという里伝を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「大通寺」の解説

大通寺

(滋賀県長浜市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大通寺」の意味・わかりやすい解説

大通寺
だいつうじ

長浜別院

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例