大足村(読み)おあしむら

日本歴史地名大系 「大足村」の解説

大足村
おあしむら

[現在地名]明科町中川手なかかわて 大足

松本藩領麻績おみ組、のち川手組に属し、その後幕府領となった。長峰ながみね丘陵の北裏、会田あいだ川の下流山間の村で、北は潮沢うしおざわ村、南はとうはら村、西は明科村に接する。

「大塔物語」に応永七年(一四〇〇)の大文字一揆に加盟し、深志ふかし小笠原氏に反抗した武士の中に、会田氏・光氏・塔ノ原氏とともに大葦おあし(大足)氏がみえる

天正検地帳に「塔原郷四十三石二斗九升」とあり、塔ノ原郷に属していた。慶安五年(一六五二)の検地の際、大足村一七七石四斗三升八合と初めて独立村となった。「信府統記」に「御朱印高百十七石一斗三升」、享保九年(一七二四)当時の石高は二〇四石三斗六合とある。

大足村
おおあしむら

[現在地名]武豊町大足・原田はらだ

東は海に面し、北はほり川悪水路を境に長尾ながお村、南は東大高ひがしおおだか村に接する。

「寛文覚書」によると、概高六九五石余、田三四町余・畑七町二反余、新田元高一六石余、家数五五、人数四七〇。小船一艘あり、「舟役御用之時、水主出」とある。元禄一〇年(一六九七)の酒かぶ帳(大野町史)に酒造一戸・株高二〇石とある。「地方古義」に慶長一三年(一六〇八)の御縄高取帳に浜年貢を塩で上納するとあるが、「寛文覚書」では「塩浜一町三畝弐拾六歩、定納米」とし、「徇行記」では「今ハ塩浜ナシ」として「海道トホリニ民屋建ナラヒ一村立ノ所ナリ、農業ヲ以テ専ラ営トス、其内酒造屋三戸アリ酒ハ勢州辺ヘ積送ル、又漕賈ヲ営ミトスル者モアリテ四五十石積ノ波不知いさば船三艘アリ、其外ハ小百姓ハカリ也」と記している。

大足村
おおだらむら

[現在地名]内原町大足

桜川東岸に南北に延びる舌状台地の先端部に位置する。結城街道が村の中央を東西に貫き、東は水田を隔てて加倉井かくらい(現水戸市)

和光院過去帳(和光院文書)の天正九年(一五八一)に「大足」とみえ、当時は在地の土豪である外岡氏が支配したと伝える。その館跡があり、それに伴う西木戸にしきど大城山おおしろやまなどの地名が遺称される。同過去帳の同一二年には「外岡伯耆守老母七十九歳」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大足村」とあり、高は一千八九五石余であった。のち水戸藩領から離れ、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には二藩(笠間藩・麻生藩)・三旗本領・天領および朱印地が錯綜した。

大足村
おわせむら

[現在地名]松阪市大足町・さくら

村の南、大黒田おおくろだ村の西にあり、村域内を坂内さかない川が流れる。近世は和歌山藩松坂領。開発に関する史料として享保四年(一七一九)の新田畑検地帳(徳川林政史蔵)がある。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数五〇、人数二二三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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