明科村(読み)あかしなむら

日本歴史地名大系 「明科村」の解説

明科村
あかしなむら

[現在地名]明科町中川手なかかわて 明科

松本藩領川手かわて組の一村で、初めは麻績おみ組に属し、のち幕府領となった。東は大足おあし村、西はさい川を隔てて押野おしの村・塩川原しおがわら村、南はとうはら村、北はうしお村に接する。

天正検地帳には二〇〇石八斗八升とあるが、「信府統記」には、享保九年(一七二四)当時の石高は三一四石六升三合四勺とある。田二四一石一斗八升八合、畑四一石三斗七升二合。寛文年間(一六六一―七三)には田二〇町五段五歩、畑一〇町四段。

村内北にある小谷城こやじよう遺跡は縄文遺跡であり、石堂いしどう遺跡から発掘された白鳳期の布目瓦の出土と礫敷の遺構等から、松本平最古の瓦塔仏教遺跡であることが判明した。

村の北に広田ひろた神社があり、松声山竜門りゆうもん寺は村の南にある。現在は曹洞宗青原せいげん寺の末寺

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報