大森神社(読み)おおもりじんじや

日本歴史地名大系 「大森神社」の解説

大森神社
おおもりじんじや

[現在地名]鳥取市相生町四丁目

国道二九号に近い旧袋きゆうふくろ川左岸の住宅地区に鎮座。旧村社。祭神は大己貴神・少名毘古那神・事代主神。江戸時代は大森大明神と称され、鳥取城下の大森町と田島たのしま村の境界付近に位置した。「県神社誌」は往古大森町に社殿があり、現在の境内には奥宮と称される二間四方余の石殿があったが、正徳元年(一七一一)新たに社殿が造営されたと記す。寛文一〇年(一六七〇)当社が順礼・山伏・比丘尼の溜場所となっていたため、鳥取藩は大森町・薬師やくし町・品治ほんじ町の町人に彼らを追放することを命じた(町方御定)。氏子域は周辺の町や村のみならず袋川対岸に及び、鹿野しかの町・下魚しもうお町・三軒屋さんげんやほん町四丁目・ちや町の町屋地域ならびに惣堀そうぼり内側・下魚町北側の袋川惣堀間、湯所ゆところ村の武家屋敷地を含んだ。

大森神社
おおもりじんじや

[現在地名]熊取町久保

久保くぼ集落北端の見出みで川左岸に鎮座する。祭神は事代主命・菅原道真で旧郷社。穂波ほわ神社と俗称され、秋の大祭は穂波祭とも称する。「大阪府全志」によると神輿渡御の時に「ほーわほーわ」と囃したことによるという。創祀不詳。社伝によると天正一〇年(一五八二)四月に中氏の一族根来右京藤原盛重が再建したもので、野田のだの野田神社・雨山あめやま神社とともに熊取の三社とよばれ、干天の時には三社に祈雨したという。当社には五十四名座とよばれる宮座があり、旧八月二五日の大祭の神輿渡御には中氏・降井氏ほか五二名が必ず供奉したという。

大森神社
おおもりじんじや

[現在地名]津田町鶴羽 東代

長見ながみ山の北西に延びる谷が平地部にかかる隠谷かくれだにの地にあり、菅原道真を祀る。「讃岐国名勝図会」に鶴羽つるわ村の天満宮をあげ、末社一二座と並んで「大森大明神、神体石像、古物」が記されており、古くから天満宮と大森大明神が一つの社殿に祀られていたようである。「三代実録」元慶元年(八七七)三月四日条に、讃岐国多和たわ神に従五位上を授けたことがみえ、「延喜式」神名帳に寒川さんがわ郡「多和タワノ神社」が記されている。この多和神社については現志度しど町の多和神社、長尾ながお町の多和神社にあてる説もあるが、「和名抄寒川郡多和郷は康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)などから津田町域であったとみられ、大森明神にあてる説が有力である。

大森神社
おおもりじんじや

[現在地名]八日市市大森町

祭神は玉依姫たまよりひめ命・猿田彦さるたびこ命。旧村社。近世末までは十禅師じゆうぜんじ大権現とよばれた。十禅師大権現古由緒(山田文書)によれば、天智天皇二年(六六三)に勧請された八幡宮母体とし、安元二年(一一七六)坂本さかもと(現滋賀県大津市)より十禅師大権現を勧請したと記している。同社には九門座・平尾座・助座の三座からなる宮座があり、各座とも一番序一名・横座頭一名・横座三名と座講で構成されている。毎年四月三日夜と翌四日朝に拝殿前で行われる春祭の踊は最上踊とよばれ、宮座行事と併せて県選択無形民俗文化財となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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