多聞院(読み)たもんいん

日本歴史地名大系 「多聞院」の解説

多聞院
たもんいん

[現在地名]鎌倉市大船

常楽じようらく寺の東南、字みやまえにある。真言宗大覚寺派。天衛山福寿寺多聞院という。本尊毘沙門天。開山南介僧都と伝える。もと手広青蓮てびろしようれん寺末。寺伝によると開基は甘糟氏。二世賢怡は天正一五年(一五八七)、三世賢朝は寛永二〇年(一六四三)に没(寺蔵「過去帳」・位牌)

多聞院
たもんいん

[現在地名]高野町高野山

西室にしむろ院の南に位置し、現在は庫裏と仮門のみがある。準別格本山。本尊毘沙門天(木造立像、国指定重要文化財)。もと谷上院たにがみいん谷の成就じようじゆ院の東にあり(文化一〇年高野山細見絵図)、明治三〇年(一八九七)頃まで長屋(所化寮)が残っていた。「諸院家析負輯」は開基を観覚多聞房とし、文明五年(一四七三)の諸院家帳に治承年中(一一七七―八一)建立と記す一本もあるが、室町時代の血脈中院(三宝院蔵)によれば観覚は貞応三年(一二二四)八三歳で没した。

多聞院
たもんいん

[現在地名]南区比治山町

比治ひじ山北西麓にあり、吉祥山と号し広島県真言宗教団。本尊毘沙門天。治承年間(一一七七―八一)創建と伝え、毛利氏の郡山こおりやま城下(現高田郡吉田町)に建立したが、広島開府とともに、天正一八年(一五九〇)新庄しんじよう(現西区)三滝みたき山麓に移された。

多聞院
たもんいん

[現在地名]奈良市三碓一丁目

井辻山護念寺と号し、融通念仏宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、聖徳太子が創建し、天平一〇年(七三八)従四位下木工権頭小野福麿の子福資が出家し、護念法師と称して父の菩提を弔ったという。元亨元年(一三二一)法明が後醍醐天皇勅旨を受けて中興したとも伝える。もと浄土宗。寛永年間(一六二四―四四)以後再三火災にかかる。

多聞院
たもんいん

[現在地名]平群町大字信貴畑

信貴しぎ山北東麓に所在。信貴奥院米尾山と号し、高野山真言宗。境内から焼けた米が出土することで有名。「江木鰐水日記」天保六年(一八三五)一月一五日条に「北出出米尾、仏堂在焉、堂左一神祠、々後穿土、出焦黒之米、蓋松永久秀積兵糧之地、志貴之陥、織田之兵火之、其焦米今存云」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報