城戸村(読み)きどむら

日本歴史地名大系 「城戸村」の解説

城戸村
きどむら

[現在地名]基山町大字小倉こくら白坂しらさか桜町さくらまち八辺はちべ引地ひきじ上原うえばる中園なかぞのいけさか丸林まるばやし

現基山町の北部にあり、筑前・筑後両国に接する。基山きざんの南麓で山地・丘陵が多く、高原たかはら川の上流つつ川・桜町さくらまち川が流れる谷に耕地・集落がある。

文禄四年(一五九五)検地帳(基養精細録)に「城戸村」とあり、「以前ハ幾戸、木戸ニ作ル」ともある。基肄きい城の門戸の意とされている。近世は対馬藩領。

村内には老松宮おいまつぐう古墳をはじめ、各所に古墳・古墳群跡がある。灌漑用溜池の桜町堤・平林ひらばやし堤は寛文二年(一六六二)菖蒲坂しようぶざか堤は同四年の築造である。村内の白坂町は寛文三年成立の新町で長崎街道に沿い、国境の三国みくに峠から九町余、南の木山口きやまぐち町へ八町余の地にある。元禄絵図には仁田にた天台寺てんだいじの子村集落がみえる。

城戸村
じようどむら

[現在地名]奈良市大森おおもり町・小太郎こたろう町・南城戸町・東城戸町・西城戸町

木辻きつじ村北方に所在。「春日社記録」中臣祐賢記の文永二年(一二六五)四月一五日条に、城戸郷民が春日社・同若宮社に恒例の御幣奉納をしたことがみえ、弘安三年(一二八〇)五月五日条には小五月会のため田楽法師六人を伴って社参、以後小五月こさつき郷のうち城戸郷だけが田楽法師による田楽奉納をしている。「大乗院雑事記」文明一〇年(一四七八)七月一六日条によると、念仏風流があり、城土じようど郷が舞車を出したことがみえ、また同年八月一九日に古市氏の振舞いにより城土に風呂が立ち終日活況であったと記す。

城戸村
きどむら

[現在地名]豊田町大字城戸

山と木屋こや川の中間にある村でほとんど山地である。北は西長野にしながの、東は木屋川を境に東長野ひがしながの、南は西中山にしなかやま(現菊川町)の各村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属す。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳は長野・江良えらとの合石で九〇〇石余を記す。西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に城戸村とあり、「地下上申」も独立村として村の四境などを上申するが、石高・戸口の記載はない。幕末の豊浦藩明細書は、田方五町余で高一六六石余、畠方三町余で高三七石余を記し、城戸村支配として城戸・長野・江良えら手洗たらいの村々を載せ、合わせて戸数七五軒、人口三三七人とする。

村内の小名節所せつそうは「地下上申」に「是は関所之所ニて有之たる由」、また片山かたやまについては「関守として片山何かしと申仁居住被仕たる由」「今に片山屋敷と申伝候所御座候」と記す。

城戸村
じようどむら

[現在地名]西吉野村大字城戸

丹生にう川とむね川との合流地を占め、西熊野街道から天川てんかわ郷への道を分岐する地点に立地する。檜川ひかわ郷のうち。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報