国分村(読み)こくぶむら

日本歴史地名大系 「国分村」の解説

国分村
こくぶむら

[現在地名]柏原市国分本こくぶほん町一―七丁目・国分市場こくぶいちば一―二丁目・国分西こくぶにし一―二丁目・国分東条こくぶひがんじよ町・田辺たなべ一―二丁目・あさひおか一―四丁目

大和川が亀瀬かめのせ峡谷を抜けて平野部へ出るところに位置する。北は大和川、西は玉手山たまてやま丘陵とはら川、東と南は山地。近世の安宿部あすかべ郡の過半を占める。大和と河内を結ぶ交通の要地として街道沿いに集落が発達、これが国分本郷こくぶほんごう。ほかに枝村として南の山沿いに東から東条・六軒ろつけん・田辺が並ぶ。

産土神の国分神社のある松岳まつおか山に、全長一二〇メートルの前期の松岳山まつおかやま古墳がある。かつては同じ尾根の上に六基以上の前期古墳があった。なおこの山から船首王後ふなのおびとおうごの墓誌(銅製、国宝)が出土した。銘文に六六八年にあたる「戊辰年十二月」の年紀があり、これが銘文の製作年次を示すものであれば現存する最古の墓誌である(製作は八世紀とする説もある)。船氏は渡来系氏族で丹比たじひ野中のなか(現羽曳野市・藤井寺市)を本貫としたといわれる。律令制下では安宿あすかべ資母しも(和名抄)に属し、河内国の国分寺もあった。これが地名の起りともなっている。国分寺跡は竜田たつた道で大和川北岸の青谷あおたにから当地へ渡ったところの南側山麓にある。国分尼寺もその西の東条集落に近い小字尼寺にんじにあったとされるが確かではない。田辺廃寺も古代寺院跡で、今は田辺の春日神社の境内地になっている。また「日本霊異記」(中巻)・「扶桑略記」(天平一七年条)にみえ、鋤田連の氏寺である「河内国安宿郡鋤田寺」も当地にあったとみられている。場所は「聖誉鈔」に「安宿郡亀瀬ノ西、シナトノ頭ニアル鋤田寺」とあることや屋瓦の出土から、国分寺跡より五〇〇メートルほど東、明神山の山麓に近いところに考えられる(否定的な説もある。安宿郡の→尾張郷

国分村
こくぶむら

[現在地名]一宮町国分

かね川扇状地に位置し、東は末木すえき村など、南は金川原かねがわばら(現御坂町)。地名は甲斐国分寺があったことに由来する。末木村からの御幸おみゆき道が当村から金川沿いに北西に向かい、川中島かわなかじま(現石和町)に至る。永禄四年(一五六一)の番帳にみえる一九番「こくほ」は当地にあたり、禰宜が府中八幡宮に勤仕を命じられている。勤番社は石船いしふね社と考えられる。天正一一年(一五八三)四月一九日には徳川家康により「小窪」の一蓮いちれん(現甲府市)領八〇〇文(「徳川家康判物写」寺記)神座山じんざさん権現(現御坂町)領三五〇文の地が安堵された(「徳川家康印判状写」御庫本古文書纂)。同二〇年二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)の東郡筋に「こくほ妙性寺」二二〇坪が載る。

慶長古高帳に国分とみえ高三八六余石、幕府領。ほかに国分寺領七石余・大明神領二石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本松田・依田の二家がみえ、元禄郷帳では同じ二家領と国分寺領。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、同七年から甲府新田藩(松平時睦)領となり(「柳沢刑部・式部少輔御知行付村」若尾資料)、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配。

国分村
こくぶむら

[現在地名]久留米市国分町

高良こうら山の西方、高良川中流に位置し、北は野中のなか村に接する。古代の筑後国分寺の所在地で、たにに国分僧寺、北の西村にしむら一帯に国分尼寺があったと推定され、馬場田ばばんたには瓦窯跡が発見された。南部の低丘陵に六世紀中頃から七世紀後半頃の築造と考えられる十数基によって構成される中隈山なかぐまやま古墳群があり、中世の土器・青磁も各所に散布する。中世史料上は国分または国分寺とみえる。文治二年(一一八六)五月六日、上妻氏の祖である藤原家宗に「国分」など一二ヵ所の地頭職が安堵されている(「太宰府守護所下文案」上妻文書/鎌倉遺文一)。天正一二年(一五八四)三月二八日の大友義統預ケ状写(高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によれば、父母忠死の賞として高良社大祝鏡山保真に給付された所領に「三井郡之内国分」の六町が含まれる。

国分村
こくぶむら

[現在地名]大津市国分一―二丁目・北大路きたおおじ二丁目・田辺町たなべちよう蛍谷ほたるだにひかり丘町おかちよう・国分

鳥居川とりいがわ村の南、瀬田せた川西岸にあり、同川沿いに南下する宇治路から西へ分岐して山城国境を越える牛尾うしお越が通る。古代近江国分寺が置かれていたとされる。「梁塵秘抄」に「粟津石山国分あはづいしやまこくぶん瀬田せたはし」とみえ、名所の一つであった。建暦二年(一二一二)七月の石山寺領田数所当注文(石山寺文書)に「国分所当」として二六町一反余・米八二石六升余とあり、内訳は得田二〇町四反余・四二石九斗余(うち百姓分一一町一反余のほかは寺僧分)、免田五町二反余(神田・舎那院・供僧・井料・下司・定使などに充てられる)などとなっている。

国分村
こくぶむら

[現在地名]浜田市国分町

下府しもこう村の北に位置し、西および北は日本海に面する。正保四年(一六四七)以前に下府村から分村して成立し、同年の古田領郷帳では国府村として高一一二石余、下府村へ入と注記されている。元禄一二年(一六九九)の石見国旧三領分附村々石高記録(浜田市立図書館蔵)には国分村とみえ、同帳および宝永石見国郷村帳、享保暦浜田領石高改写(稲垣家文書)でも高の増減はない。「石見八重葎」では高一一八石余。宝暦六年(一七五六)の跡市組人高数改帳控(沢津家文書)によると寺内一〇人・医師家内四人・百姓二七二人・浦人四一一人。承応二年(一六五三)尾崎(のち谷田と改姓)藤兵衛は浜田藩の援助のもと用水池の谷田やだ池の開削に着手し、五郎左衛門重長・重雄の手によって宝永三年(一七〇六)まで続けられた。

国分村
こくぶむら

[現在地名]芦辺町国分

那賀郷なかのごう村の西に位置し、北東部を谷江たにえ川が流れ瀬戸せと浦に注ぐ。地名は壱岐国分寺(島分寺)に由来するが、壱岐国府もまた当地に置かれていたとする説がある。地内の月読つきよみ神社を「延喜式」神名帳に記される壱岐郡一二座の一つ「月読神社」に比定する説がある(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)。貞観元年(八五九)「月読神」は従五位上になっている(「三代実録」貞観元年正月二七日条)。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に国分村とみえ、高五九九石余。慶長国絵図にも村名が記され、正保国絵図では高五二九石余。

国分村
こくぶんむら

[現在地名]市川市国分一―七丁目・中国分なかこくぶん一―五丁目・北国分きたこくぶん一―四丁目・堀之内ほりのうち一―五丁目・国府台こうのだい一丁目・同五―六丁目・真間ママ五丁目・須和田すわだ一丁目など

谷津を隔てて国府台村の東に位置する。集落は台地(国分台)の縁辺部に発達し、その東側を真間川の支流国分川が南流する。古代には国分台に下総国分寺・同尼寺が置かれ、地名もこのことに由来する。当地は下総国守護千葉氏の庶子国分氏(初代は千葉常胤の子国分胤通)の本貫地とされる。国分氏は当初から香取郡をおもな拠点としていたが、千葉大系図によれば、胤通の子(大戸)親胤の子時通は「国分寺本主」であった。文永年間(一二六四―七五)香取社の殿遷宮に際して四面釘貫分は国分寺本役で、この作料官米六〇石を「地頭弥五郎時道女房」が負担している(香取文書)

国分村
こくぶむら

[現在地名]七尾市国分町・栄町さかえまち

眉丈びじよう山系と徳田とくだ段丘の間の平地および段丘の麓に展開し、北は藤橋ふじはし村、東は古府ふるこ村。徳田段丘の東側麓には御祓みそぎ川、眉丈山系と徳田段丘の間には同川の支流鷹合たかご川が北流する。垣内に中川原なかかわら山下やました半田はんだ高井たかいがあり、高井を西往来が通る。地名は能登国分寺が所在したことに由来する(鹿島郡誌)

天正一〇年(一五八二)三月二五日の検地帳(国分区有文書)に「国分の分」とみえ、高四九町九反余、うち田方四〇町三反余・畑方七町九反余。

国分村
こくぶむら

[現在地名]鈴鹿市国分町

木田きだ村の北方台地上にあり、三重郡界を通る東海道にも近い。村名の由来は、伊勢国分寺が所在したからで、平安時代の頃までは在地豪族大鹿氏の根拠地として大鹿おおか村と称していた。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)によると、山辺やまべ御園が永承年中(一〇四六―五三)に建立されたが、御園内の大鹿村が国分寺領と号して、神宮への上分を減少させるに至ったこと、御園給主は大鹿国忠であるとしている。「日本地理志料」にも「按国分村、旧名大鹿」とある。付近には大鹿氏にちなむ古墳も多い。しかし、いつから国分村と称したかは不明である。織田信雄分限帳に「四百三拾六貫文 毛利源蔵 河曲郡コクフ相違南堀」とあり、天正一二年(一五八四)頃一時信雄領となったことを示している。

国分村
こくぶむら

[現在地名]海老名市国分・上今泉かみいまいずみ一丁目

東は望地もうち村・かしわ村、西は河原口かわらぐち村・上之郷かみのごう村、南は上大谷かみおおや村と早川はやかわ(現綾瀬市)、北は上今泉村と接している。村の中央を東西に矢倉沢やぐらさわ往還が通じている。承久の乱に際して上洛した幕府軍のなかに「国分八郎相模(吾妻鏡)がいる。当時千葉常胤の子胤道が国分を名乗っていたため、八郎に「相模」と注記したものであろう。当地の武士と思われる。永享一二年(一四四〇)結城合戦の折、上杉重方(憲実弟)が「国分」に陣をしいたと「鎌倉大草紙」は伝えている。

国分村
こくぶむら

[現在地名]豊津町国分

現豊津町の中央部北西寄り、はらい川の開析により形成された同川西岸の台地上に位置する。中心部に豊前国分寺跡とその法灯を継いだとされる国分寺があり、それを取囲むように集落が形成されている。北東は惣社そうしや村、東は徳政とくせい村、南は当村から分れた上坂かみさか村。永禄四年(一五六一)一一月一六日の田原親宏感状(大友家文書録/大分県史料三二)によれば、大友軍は同月五日に門司表で毛利方に敗北、撤退中の六日には京都郡黒田原くろだばると「仲津郡国分寺原」の間で毛利・小早川勢および野島・来島などの水軍に襲われた。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人五人分の高七六七石余、家数六九・人数一四八(うち庄屋二・百姓一五・鍛冶一・名子一九)、牛一九・馬一一。

国分村
こくぶむら

[現在地名]館山市国分

滝川たきがわ村の南西に位置し、集落は館山平野の第六砂丘列に並ぶ。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高三〇九石余(うち田一四五石余)、同一五年の里見家分限帳によると里見家一門の頭正木大膳の給知。正保郷帳では高二四四石余(うち田一一八石余)で北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)でも同藩領。天保村高帳では鶴牧藩領。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で家数八四。嘉永七年(一八五四)の岡山藩房総預地村高帳(池田家文庫)では備前岡山藩預地。

国分村
こくぶむら

[現在地名]国分寺町国分

南流するおもい川・姿すがた川両河川に西と東を挟まれた台地上にあり、東は川中子かわなご村、西は思川を隔て大光寺だいこうじ(現栃木市)、南はむらさき村、北は藤井ふじい(現壬生町)。国分寺跡・国分尼寺跡をはじめ、多くの遺跡がある。寛喜二年(一二三〇)二月二〇日の生西小山朝政譲状(小山文書)によれば重代相伝の所領のうちに「国府郡内」の「国分寺敷地」とあり、小山長村に譲られていることから、当村域内にあった古代の下野国分寺一帯は小山氏領となっていたことがわかる。

国分村
こくぶむら

[現在地名]今治市国分・国分団地こくぶだんち桜井団地さくらいだんち一―四丁目・唐子台東からこだいひがし一―二丁目・唐子台西からこだいにし一―二丁目

今治平野南部の村。もとは古国分ふるこくぶ村と一村であったが寛永年中(一六二四―四四)に二分し、国分寺山字雉之尾きじのおから八幡端に至る山地の東側海岸寄りを古国分村とした。南は桜井村・だん村、西は登畑のぼりばた村、北は頓田とんだ川によって高市たかいち村・上神宮かみしんぐう村・ひがし村に接する。集落は国分山(一〇五・三メートル)を背に、国分寺を中心として密集し、前面は広い水田地帯である。村の西部を金比羅道が通り道路交通の要地となっている。

国分村
こくぶむら

[現在地名]国分寺町国分

府中ふちゆう(現坂出市)の東に位置し、北部は五色ごしき台山系の国分台・蓮光寺れんこうじ山の山塊に包まれ、その南麓に平地が開け、南西角にせきノ池がある。古代の阿野あや新居にいのみ(和名抄)の比定地で、南海道(近世の丸亀街道にほぼ合致)が通っていた。奈良時代に当地に讃岐国分寺が建立された。村名はこれに由来する。天正一四年(一五八六)八月二四日の仙石秀久知行宛行状(由佐家文書)で、国分村内一〇〇石が由佐平右衛門に与えられている。

国分村
こくぶむら

[現在地名]高岡市伏木国分ふしきこくぶ一―二丁目・伏木一宮ふしきいちのみや二丁目・伏木国分

日本海に面し伏木村の西に位置。西の村境は紅葉もみじ川で、村の中を浜往来が通る。村名は古代における越中国分寺の所在地による説があるが(越中志徴)、現在は否定されており、国分寺の封戸による説など国分寺とのかかわりが推測されている。永禄七年(一五六四)の本願寺番銭帳(長光寺文書)では「国母村心了」に二〇〇文が割振られ、心了を代表とする道場つまり光西こうさい寺の活躍が認められる。また慶長年間(一五九六―一六一五)には隣村の一宮村と山境をめぐる争論が起こり、小滝の嶺を山境にして塚をつくることで決着が図られている(「山論裁許状」堀家文書)

国分村
こくぶむら

[現在地名]南国市国分

香長かちよう平野北部に位置し、村の南側を国分川が西流する。「土佐州郡志」は「東限比江本山之路、西限八幡村八饗川、南限廿枝村、北限左右山村、縦横十町許、(中略)其土黒」と記す。村名は国分こくぶん寺の存在にちなむ。「和名抄」所載の宗部そがべ郷の地で、条里制の遺構も認められる。奈良時代における国分寺の創建以来、東に接する国衙所在地の比江ひえ村とともに発展した。

天正一六年(一五八八)の廿枝郷衙府中国分地検帳によると国分川より北の衙府中がふちゆう(比江村)と国分村とを一括して検地している。両村合せての検地面積は七三町一反四四代で、うち屋敷は一町八反一〇代、畠六町六反余、残りが田である。

国分村
こくぶむら

[現在地名]大和町大字尼寺にいじ字国分

上佐賀下郷に属し、文化一四年(一八一七)の郷村帳には国分村の名があるが、正保絵図にも天保郷帳にも記載はなく、尼寺村に含めて枝村の扱いを受けている。国分寺に由来し、古代において重要な地であった。「和名抄」記載の郷「城埼(木佐岐)」は国分村の城崎じようさきのことだといわれている。

国分寺は天平一三年(七四一)に聖武天皇の詔によって建立されたと考えられるが、その後の動きには不明な点が多い。

国分村
こくぶむら

[現在地名]太宰府市国分一―五丁目・国分・水城みずき一丁目・坂本さかもと一―三丁目

坂本村の西、四王寺しおうじ山南西麓にあり、御笠みかさ川右岸に位置する。日田街道が北西から南東へ通る。村名は国府とも記され(田圃志)、国分寺があったことに由来する(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では国分村の田二一町六反余(分米二七〇石余)・畠一三町三反余(分大豆四八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は六五八石余(慶長石高帳)。元和九年(一六二三)六八九石余が黒田美作守(一成)の給知となる(「黒田忠之替地目録」三奈木黒田家文書)

国分村
こくぶむら

[現在地名]天王寺区国分町・勝山かつやま三―四丁目・寺田てらだ町二丁目、生野いくの勝山北かつやまきた一―二丁目・勝山南かつやまみなみ一―三丁目・生野東いくのひがし一丁目・同三丁目・生野西いくのにし一―四丁目

天王寺村の東に接し、東と西がやや高台をなす。中心集落は西方の高台にあって現在天王寺区に属するが、村域の耕地の大半と、「摂津志」に属邑とされている字ひがしは現生野区。当地は摂津国分寺の所在地といわれ、現在でも国分こくぶん寺という寺がある。村名もこの寺にちなむといわれ、中世には伊勢神宮領国分寺御厨があったと考えられる。国分寺御厨については文明五年(一四七三)八月一一日付の文書(内宮引付)にみえ、伊勢神宮は同御厨に対し、毎年本宮へ納入すべき上分米が不法にも上納されず神事が懈怠するので、早く納入し神役を勤仕せよと命じている。

国分村
こくぶむら

[現在地名]和泉市国分町

平井ひらい村と黒石くろいし村の南にあり、槙尾まきお川が流れる池田いけだ谷の一村で、宮里みやざと三ヵ村の一。地名は古代から中世にかけて当地に国分寺が置かれたことによる。当地には光明皇后生誕地伝承があり、泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝は「此村七八町程東に薬師堂あり、諸伽藍之跡あり、此薬師堂ニ智海上人求聞持之法執行之時、縁先に小便を致せしを女鹿嘗て其鹿懐妊し、日満、鹿来り堂縁に座生し、其儘捨て山へ陰る、其子啼に依て上人取上見給に女子也、母の鹿を待に不来、故不便に思ひ給ひ同村に乳を貰、養育致し、十三歳之時室堂の何某方に養女に遣す、如前文都召連行に」と記し、のち聖武天皇の后になったという(→室堂村

国分村
こくぶむら

[現在地名]亀岡市千歳ちとせ町国分

牛松うしまつ山西麓にあり、北は七谷ななたに川を挟んで江島里えじまり村、東は山、南は毘沙門びしやもん村、西は河原尻かわらじ村。集落は東側山際にかけてあり、水田が西方に段落をなして広がる。村名は、当地に国分寺が置かれていたことによるという。

当地は文永八年(一二七一)に延暦寺講堂改築の料所になり(天台座主記)、暦応二年(一三三九)には等持とうじ(現京都市北区)の創立に際し、足利直義が国分寺地頭職を等持院に寄付し本尊造立の料所としている(雨森善四郎氏所蔵文書)。貞治三年(一三六四)七月七日仏師院吉が地頭職を与えられ、その後院吉の後嗣が相伝したが、永正六年(一五〇九)に絵所預の土佐光信と仏師院勝の領有争いが生じ、幕府は国分寺地頭職を中分して両者に領有させた(同文書)

国分村
こくぶむら

[現在地名]三原町八木笶原国分やぎやはらこくぶ

鳥井とりい村北西の平地にある。福良ふくら街道が南西から北東に通る。村名は淡路国分寺があることによる。国部村とも記される(正保国絵図)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「こくぶ村」とみえ、七六石三斗が羽柴秀吉の蔵入地となっていた。正保国絵図では高二三四石余、天保郷帳でも同じ。反別戸数取調書によると反別二六町五反余、高二一二石余、うち蔵入高八〇石余・給知高一三一石余。給人は穂積治右衛門ら七人、家数四六・人数二一三。水利としてはみやの池、大久保おおくぼ村の門前もんぜん池などの溜池を利用する(味地草)

国分村
こくぶむら

[現在地名]小浜市国分

東は松永まつなが川、西は遠敷おにゆう川を隔てて遠敷村。南は丹後街道を越えて金屋かなや村。北は松永川・遠敷川が合流してきた川に注ぐ。鎌倉時代には松永保に属した。集落のほぼ中心に二町方格の若狭国分寺跡が残る。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写によればこの頃国分僧寺・尼寺があり、まだ集落の形成は考えられない。文明一三年(一四八一)正月七日付明通寺寄進札に「国分寺四郎大夫藤原末広」とあって、在家の存在が知られるが、村名がみえるのは下って天文一八年(一五四九)一二月二日付明通寺寄進札が早い例である。

江戸時代には遠敷組に属し、元禄三年(一六九〇)八月の国分村々高・家数・人数等記録帳(明通寺文書)によれば高四三二・四一七石でうち一六石余は畠高、家数五五軒、高持百姓四二人(うち一四人は公事人)、無高百姓一三人、人数は計二六四人(男一三六・女一二六・出家二)、牛二匹、馬一九匹。

国分村
こくぶむら

[現在地名]大分市国分

大分川左岸の段丘上に位置する。北は賀来かく村、南東は大分川を隔てて小野津留おのづる村・田原たばる村。村名は当地にあった豊後国分寺に由来する。国分寺跡は段丘の中央字上条うわじようにあり、字名に紺屋こうや倉屋くらや屋敷やしき下条しもじようなどがある。フロイス「日本史」によると、天正一三年(一五八五)国分の一〇二人がキリシタンになった。正保郷帳に村名がみえ田高一九九石余・畑高一三八石余、賀来庄に所属。

国分村
こくぶんむら

[現在地名]宮津市字国分

西は男山おとこやま(現与謝郡岩滝町)に接し、南は宮津湾の内海阿蘇あそ海に臨む。成相なりあい西谷にしたに登り道の口にあたる。古代の丹後国分寺があった。

慶長検地郷村帳に「府中郷之内」として「国分寺村」とみえる。慶長七年(一六〇二)の府中郷検地帳(筑波大学蔵)では「こくふ」また「こくふん」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報