四村(読み)よつつじむら

日本歴史地名大系 「四村」の解説


よつつじむら

[現在地名]野田川町字四辻

加悦かや街道出石いずし街道の交会点付近に開けた村。慶長検地郷村帳に高七三八・七七石「四辻村」とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で一千九石余となった(天和元年宮津領村高帳)宮津藩領。

寛政元年(一七八九)の四ツ辻村差出帳(「四辻郷土史」所引)によれば、総高のうち九七三・六四石は田方(五三町四反余)、三五・四一石が畑方(四町九反余)であった。戸口は一〇六軒、四四〇人(男二一二人、女二二八人)、うち百姓四三軒、縮緬屋一七軒、小商人一〇人、小宿屋五軒、鍛冶屋四軒など。

四村
よむら

[現在地名]下市町大字よむら

秋野あきの川流域、善城ぜんぎ村の東南部に連なる。間戸まと草谷くさだに稲貝いなかい高原たかはら四ヵ村の総称とするが(大和下市史)、享和郷帳は「四村之内」として岩森いわもり高原・間戸・草谷の四ヵ村をあげている。永正一一年(一五一四)四月の田地譲状(楠山家文書)には「イナカ井助三郎(略押)」の人名がみえ、小字津越の八幡神社湯釜には「吉野郡官上荘四村大明神 享保十稔九月」と刻銘する。

官上かんじよう郷のうち。慶長郷帳に村名がみえないが脱漏であろう。元和郷帳では村高四〇五・六二石(代官小野宗左衛門)とみえ、のち延宝検地により村高は六一一・一六五石となった。

四村
よむら

[現在地名]今治市四村

今治平野の中央やや西寄りに位置し、もと松尾まつお村・五十嵐いかなし村などと一村であった。村は東を徳重とくしげ村、西を五十嵐村に挟まれて細長く、南は新谷にや村、北は蒼社そうじや川で別名べつみよう村・高橋たかはし村に対する。村地は五十嵐の丘を背にして広がり、条里制の遺構も明瞭である。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智おち郡の項に「四村 定水所、川有、野山有、松林少有、深山有」とみえ、村高は一千七石四斗七升である。


よつつじむら

[現在地名]三田市四ッ辻

長坂ながさか町の西、西安にしやす勝谷かつたに新田両村の南、武庫むこ川右岸の平坦地に立地する。灌漑用溜池が多い。中央を丹波への街道が通る。慶長国絵図に四辻村とみえ、高二八七石余。正保郷帳では高四四〇石余。御領分御高付覚(九鬼家文書)によれば、明和七年(一七七〇)ほら村を分離したという。しかし以降も郷帳類では四辻村一村で高付され、天保郷帳では高五〇六石余。

四村
よむら

紀ノ川左岸の渋田しぶた村の南、標高四〇〇―五〇〇メートルの山地斜面に点在する星川ほしかわ星山ほしやま御所ごせ日高ひだか四ヵ村の総称。四郷以下公方役書上(又続宝簡集)によると、応永三〇年(一四二三)四村の百姓らが高野山に対し守護課役軽減を要求したことがみえ、四村は中世、高野山領六箇七ろつかしち郷に属する地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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