善応寺(読み)ぜんおうじ

日本歴史地名大系 「善応寺」の解説

善応寺
ぜんおうじ

[現在地名]北条市善応寺

善応寺村の中央にあり、土居館どいのたちを改築してつくられた寺。好成山と号し、臨済宗東福寺派。本尊釈迦如来

由緒書によれば建武二年(一三三五、建武三年とも)河野通盛(善恵)が正堂士顕を開山として建立し、天正一三年(一五八五)の兵火で焼失、元文元年(一七三六)黙翁士徹の再建とある。河野こうの郷土居館にいた河野通盛は建武三年湯築ゆづき(現松山市)を築いて道後に移ったが、本拠土居館を京都東福とうふく寺に模して寺院としたものという。創建当時は七堂伽藍のほか一三の塔頭をもつ広大な寺院であったらしい。

善応寺
ぜんのうじ

[現在地名]稲沢市片原一色町 道上

八神やがみ街道に面する。旭照山と号し、浄土宗鎮西派。本尊阿弥陀如来。境内一千五八四坪。建仁年中(一二〇一―〇四)一色左京大夫満吉が比叡山の蓮乗坊尭空を招請して教化・受戒し、善応と号し、天台宗一宇を建立し己の名をもって寺号とした。この時、寺の四方に四神を勧請したと伝え、その一神富士ふじ社は現在も東隣にある。その後荒廃し、天文元年(一五三二)橋本伊賀守(道求一把)が再建し浄土宗に改めたと伝える。塔頭興竜こうりゆう院がある(徇行記)

善応寺
ぜんのうじ

[現在地名]山ノ内町大字平穏

宝福ほうふく山善応寺は、室町時代中期に記録された信濃の臨済宗院一〇ヵ寺中に「高梨善応寺保福山」とある(和漢禅刹次第)。もと東山麓の善能寺(現吉沢よしざわ)集落の寺久保てらくぼにあったが、山崩れのため現在地に移った。仁王尊は高梨朝高の次男上条介四郎の勧請と伝える。慶長年中(一五九六―一六一五)谷巌こくごん寺の独翁澗宿により曹洞宗改宗復興された。本尊は釈迦如来。

開山は鈍夫全快である。全快は中国(元)に渡り、育王月江禅師について修行、帰朝後高梨氏に招かれて第一世となり、その後鎌倉に出て霊巌紹禅師に嗣法し、円覚えんがく建長けんちよう両寺の住持を務め、至徳元年(一三八四)七六歳で死去した名僧である。

善応寺
ぜんのうじ

[現在地名]上三川町上三川 上町

上三川城本丸跡の北方にある。臨済宗妙心寺派。大雲山と号し、もと宇都宮興禅こうぜん寺の末。本尊は宝冠阿弥陀如来坐像、宋の作風を伝える鎌倉期の作。元禄九年(一六九六)の縁起(下野国誌)によると、元応二年(一三二〇)上三川安芸守貞朝の開基、開山は京都東福寺開山円爾弁円の弟子直翁智侃。永徳二年(一三八二)宝殿が再興され、永正一三年(一五一六)堂宇が一新されたが、慶長二年(一五九七)の宇都宮国綱の改易によって無住となり荒廃した。寛永三年(一六二六)幕府から朱印地五石を寄進される(旧県史)

善応寺
ぜんのうじ

[現在地名]土浦市真鍋三丁目

水戸街道の東側、台地中腹にある。照井山歓喜院と号し、真言宗豊山派。本尊は聖観音。南北朝時代の「大光禅師語録」(安得虎子)に「南野荘善応寺造宝篋印塔文」、室町時代の「大虫禅師語録」(常陸志料)に「南野庄善応寺」とあり、中世に開基されたと考えられる。寛文一〇年(一六七〇)土浦藩主土屋数直は観音堂を建て(土浦城記)、土浦城の裏鬼門除けとして聖観音像を安置した。

善応寺
ぜんのうじ

[現在地名]仙台市燕沢

甘棠大雄山聖徳善応寺は臨済宗妙心寺派で、十一面観音を本尊とする。元禄一〇年(一六九七)四代藩主綱村が寺地寺領を寄付し、松島陽徳ようとく院の六世通玄を開山とする。同一五年仏殿の造営がなり、五代藩主吉村により現号名に改称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の善応寺の言及

【北条[市]】より

…河野郷は伊予の名族で中世に水軍を擁して勢威をふるった河野氏の根拠地で,高縄山上の高縄城をはじめ各所に城砦跡が残る。南北朝初期,河野通盛の建立という善応寺や,高縄寺,高縄神社など河野氏ゆかりの社寺もある。市街中心の北条と辻は,江戸時代には今治(いまばり)道に沿う街村であった。…

※「善応寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」