関山慧玄(読み)カンザンエゲン

デジタル大辞泉 「関山慧玄」の意味・読み・例文・類語

かんざん‐えげん〔クワンザンヱゲン〕【関山慧玄】

[1277~1361]南北朝時代臨済宗の僧。信濃の人。俗姓高梨氏鎌倉建長寺に入り、のち、京都大徳寺宗峰妙超に師事し、その法を継承。妙心寺の開山となる。無相大師

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改訂新版 世界大百科事典 「関山慧玄」の意味・わかりやすい解説

関山慧玄 (かんざんえげん)
生没年:1277-1360(建治3-正平15・延文5)

鎌倉末・南北朝の臨済宗の禅僧。京都の妙心寺の開山。信濃の高梨氏の出身で,同家は信濃源氏の一系といわれ,また禅宗との関係もあり,関山がはじめに学んだ禅僧月谷宗忠は叔父であったと伝えられる。1307年(徳治2)鎌倉の建長寺に入り南浦紹明(大応国師)にあい慧眼の名をもらい,南浦寂後も鎌倉にあって物外可什,巨山志源などに参禅して修行した。その後信濃に帰り,27年(嘉暦2)建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)五十年忌出席のため再び建長寺に行き,西来院での宿忌(しゆくき)法要にのぞみ,そこで某僧から宗峰妙超(大灯国師)を教えられた。京都大徳寺の宗峰に謁して師事し,修行に専念すること2年を経て雲門の関字の公案をさとり,29年(元徳1)宗峰がそれを証明し,関山の号が与えられ,また慧眼を慧玄と改称した。この年宗峰の代理で後醍醐天皇に法を説くなどしたが,のち美濃の伊深に草庵を結んで隠棲生活に入った。37年(延元2・建武4)花園上皇は,参禅問法するための禅僧の推薦を宗峰に求め,また花園の離宮禅苑に改めてその寺名命名を依頼されたが,宗峰は関山を推挙し,正法山妙心寺とした。関山は妙心寺開山となり,玉鳳院から参禅する花園上皇に法を説き,弟子の指導にあたったが,その後妙心寺を退き遠州に草庵を結んだ。51年(正平6・観応2)綸旨によって再び妙心寺に住して,修禅を専らとする枯淡な禅風を宣揚し,《沙石集》には〈本朝ならびなき禅哲なり〉と称賛されている。形式的な読経規式にこだわらず厳しく学徒を指導し,法を嗣ぐことを許した弟子(法嗣)は授翁宗弼(じゆおうそうひつ)(1296-1380)ただ一人であり,また妙心寺の伽藍や経営に意を用いることがなかった。1360年12月12日,関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい,風水泉と称する井戸の辺で授翁に遺戒し,立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ,今日〈無相大師遺誡〉と称し読誦されている。遺骸は妙心寺の北東隅に葬られ,塔を微笑塔と称す。本有円成,仏心,覚照,大定聖応,光徳勝妙,自性天真,放無量光の国師号が歴朝から与えられ,無相大師の号は明治天皇から追諡(ついし)された。現在語録は伝わらず,〈慧玄が這裏に生死なし〉〈柏樹子の話に賊機あり〉等の法語が知られる。また遺命して肖像を残さず,今日の関山像は後世につくられたものである。関山の禅は,近世期に白隠慧鶴がでて大いにさかえ,他の臨済宗諸派が絶法したのに対し,その法灯を今日に伝えている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関山慧玄」の意味・わかりやすい解説

関山慧玄
かんざんえげん
(1277―1360)

南北朝初期の僧。臨済宗妙心寺派の祖。信濃(しなの)(長野県)中野の城主高梨(たかなし)氏の二子として出生、鎌倉建長寺の広厳庵(あん)で東伝士啓(とうでんしけい)(?―1374)について出家。1307年(徳治2)大応国師南浦紹明(なんぽじょうみょう)より慧眼の名を受けて修行したが、のち京都紫野(むらさきの)大徳寺の大燈(だいとう)国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に参じ、1330年(元徳2)雲門文偃(うんもんぶんえん)がただ一字で学人を接得した「雲門の関字」の公案により悟りを開き、関山慧玄の名を与えられ、大燈の法を嗣(つ)いだ。1337年(延元2・建武4)花園(はなぞの)上皇が離宮を禅刹(ぜんさつ)に改めたとき、招かれて開山となり、寺名を正法山(しょうぼうざん)妙心寺とした。師の法系を「応・燈・関の一流」といい、すこぶる重視されている。後世、明治天皇より無相大師と追諡(ついし)された。著述に『関山和尚(おしょう)百則公案』1巻がある。

[鈴木格禪 2017年6月20日]

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朝日日本歴史人物事典 「関山慧玄」の解説

関山慧玄

没年:延文5/正平15.12.12(1361.1.19)
生年:建治3(1277)
鎌倉末期から南北朝期の禅僧。臨済宗京都妙心寺の開山である。信州(長野県)の出身で,鎌倉建長寺の南浦紹明につき修行し,京都紫野の大徳寺で 宗峰妙超 に師事し嗣法する。美濃(岐阜県)の伊深に隠棲していたが,花園上皇が花園の離宮を禅院として妙心寺を開創するにつき宗峰妙超の推挙により開山となる。しかし,慧玄はまもなく妙心寺を出るが,観応2(1351)年妙心寺に再住する。禅の修行を第一にした禅僧で,妙心寺の経営には関知せず,方丈(自室)の雨漏りを見て修繕費用の寄進を申し出た高梨氏に対し,二度とくることはならないといい,袈裟の鐶は藤の蔓を用いたなどの話が伝えられている。語録や頂相(肖像)などは残っていない。延文5(1360)年84歳で寂するが,慧玄は旅支度をして授翁宗弼に行脚に出るといい,妙心寺の風水泉という井戸のそばの樹の下で訓戒を述べ(「無相大師遺誡」),それが終わると立ったまま息をひきとり亡くなったという。<参考文献>荻須純道『日本中世禅宗史』

(竹貫元勝)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関山慧玄」の解説

関山慧玄 かんざん-えげん

1277-1361* 鎌倉-南北朝時代の僧。
建治(けんじ)3年生まれ。臨済(りんざい)宗。鎌倉建長寺の南浦紹明(なんぽ-じょうみん)について修行。のち京都大徳寺で宗峰妙超(しゅうほう-みょうちょう)(大灯国師)に師事してその法をつぐ。元徳2年美濃(みの)(岐阜県)伊深に隠棲したが,花園上皇にまねかれ妙心寺開山(かいさん)となった。延文5=正平(しょうへい)15年12月12日死去。84歳。信濃(しなの)(長野県)出身。俗姓は高梨。

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367日誕生日大事典 「関山慧玄」の解説

関山慧玄 (かんざんえげん)

生年月日:1277年1月7日
鎌倉時代後期;南北朝時代の臨済宗の僧
1361年没

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世界大百科事典(旧版)内の関山慧玄の言及

【妙心寺】より

…花園上皇は大徳寺開山の宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)(大灯国師)に参禅して禅要をきわめていたが,1337年(延元2∥建武4)妙超が病臥すると,その離宮の萩原殿を寺に改め,住持の推挙と寺号の命名を妙超に求めた。妙超は法嗣の関山慧玄(かんざんえげん)を推し,正法山妙心寺と名づけたのが当寺の起源である。慧玄は権力に接近することを嫌い,修業第一に徹し,清素な生活の中で峻厳枯淡の禅を追求したが,この開山の禅風はその後の当寺の伝統となった。…

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