向野村(読み)むくのむら

日本歴史地名大系 「向野村」の解説

向野村
むくのむら

[現在地名]山香町向野

立石上たていしかみ村の北西、寄藻よりも川の支流向野川上流の谷間に位置し、立石上村のうち山口やまぐち村との間に立石峠がある。北は国東くにさき奥畑おくばた村・佐野さの(現豊後高田市)、西は豊前国宇佐郡西屋敷にしやしき村・江熊えぐま村・金丸かなまる(現宇佐市)奥畑村との間に古くからの山岳霊場津波戸つばと(五二九・四メートル)がある。寛永一九年(一六四二)旗本木下領となった村で、幕府へ提出した郷帳に載る平山ひらやま村・松尾まつお村・薫石くすべいし村からなり、さらに平山村は今治いまばる(今原)浄土寺じようどじ・平山、松尾村八丸はちまる大造司だいぞうじ・松尾、薫石村は影平かげひら日野地ひのじ日切ひきり・薫石の小村から構成される。

〔中世〕

建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)によれば、津波戸山(水月寺)の寺領として「薫石以下払門少々」があり、河野四郎によって押領されたと記されている。河野四郎は豊後国弘安図田帳に立石村四〇町の地頭としてみえる河野盛通の一族であろう。永正年間(一五〇四―二一)山香郷一揆拘分土貢納所銭注文案(志手トラエ文書)によれば、山香東西一揆の東方分として「日野地」に八段、西方分として「松尾荒所」に四段の土地があった。

向野村
むこうのむら

[現在地名]三重町向野

西原にしばる村の西にあり、大野川が南から東流し、さらに北へ向きを変えて流れる。南の対岸は川辺かわべ村。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には向野村分の一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に向野村とあり、高二九〇石余、中ノ村組に属した。慶長豊後国絵図でも向野村は高二九〇石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高二七四石余・出来高五二石余、田方一七七石余・畑方一四九石余。

向野村
むかえのむら

[現在地名]雄和町向野

雄物川右岸にあり、対岸には新波あらわ村、北は秋田藩領小種こたね村(現仙北せんぼく郡協和町)、同佐手子さでこ村に接する。

元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳の新田の部に、「仙北郡 一、無高 荒波村之内向野村」とあり、同年の岩城伊予守領内絵図(秋田県庁蔵)に、長さ一七町余、横一〇町余と村の広さが記される。開拓初期の指導者は浅野甚兵衛で、寛文六年(一六六六)から元禄六年に、一三町六段七畝の開墾に成功。

向野村
むかいのむら

[現在地名]河内長野市向野町・千代田南ちよだみなみ町など

東は石川を挟んでうれし(現富田林市)、北はいち村。集落の西側を東高野街道が南北に通る。文禄三年(一五九四)一一月一二日付の検地帳写(辻野家文書)では反別二三町九反余・分米二四七石余。同年一二月には当村の一四五石余が北条氏規領(北条家文書)。残りは寛永一一年(一六三四)より近江膳所藩領となる。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳でも高二四七石余で、一四五石余が狭山藩北条領、一〇一石が膳所藩領。

向野村
むかいのむら

[現在地名]羽曳野市向野一―三丁目・高鷲たかわし六―七丁目・同一〇丁目・はびきの五丁目・同七丁目・南恵我之荘みなみえがのしよう二―四丁目・向野・桃山台ももやまだい三丁目

伊賀いが村の北西にあり、西隣の村に向かう地形から村名が生じたという。出郷西向野にしむかいのがある。村域北西端、東除ひがしよけ川を北に渡ったところに字島城があり、中世の城跡と伝える。天正一一年(一五八三)八月一日には船越景直が丹南郡向野村の二四七石を宛行われている(記録御用所本古文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三五八石余で、三三七石が北見(喜多見)五郎左衛門重恒領、二一石余が近江膳所藩領、ほかに山年貢高八斗余。喜多見氏は元和七年(一六二一)重恒の父勝忠が堺政所職在任中、河内・武蔵に一千石加増されており、この時同氏領になったものか。

向野村
むかいのむら

[現在地名]長洲町宮野みやの

宮崎みやざき川中流左岸のゆるやかな丘陵末端部に位置し、東は西照寺さいしようじ村・古閑こが(現岱明町)、西は宮崎出目みやざきでめ村・永方ながかた村、北は野原のばら村・金山かなやま(現荒尾市)と接する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「向野 光鎮寺阿弥陀 七社大明神」とある。明治の「郡村誌」には宮崎村からの分村と記す。近世は荒尾手永に属し、「国誌」に高三四五石五斗余とある。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によると惣畝数三五町六反二畝余・高三四六石六斗余、下ケ名は二三を数えるが、安野前・前畑・山ノ浦・山崎・東出口・中嶋・北川・横野・瀬戸口は「郡村誌」にみえない。

向野村
むかいのむら

[現在地名]小山市向野

東は上茅橋かみかやばし村・下茅橋村、南は下総結城町、北は鉢形はちがた村。寛永一〇年(一六三三)下総古河藩土井氏領、元禄七年(一六九四)幕府領となり、同一〇年以降旗本武島・本多の二給。慶安郷帳では田方一七九石余・畑方五四石余。慶応三年(一八六七)の家数三二・人数一三二(「家数人別書上帳」古川明文書)。日光街道新田しんでん宿の助郷村で、元禄九年の勤高二九八石(「新田宿助郷帳」添野一夫文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android