日本大百科全書(ニッポニカ) 「名代・子代」の意味・わかりやすい解説
名代・子代
なしろこしろ
大化(たいか)以前の皇室の領有民。伝承上は、天皇に皇子がないとき、それにかわって御名を長く伝えるため設けられたとされるが、事実は、皇子の養育や、宮に仕える舎人(とねり)や膳夫(かしわで)などの資養、宮の維持・経営のため設けられ、それを領有する后妃と皇子、または天皇の名や宮号を付して何々部と称された。したがって、名代・子代の区分はかならずしも明らかでない。まず皇子女の養育料と思われるものに、応神(おうじん)朝より雄略(ゆうりゃく)朝までの間に、蝮部(たじひべ)(蝮之水歯別(たじひのみずはわけ)皇子=反正(はんぜい)天皇)、孔王部(あなほべ)(穴穂(あなほ)皇子=安康(あんこう)天皇)など11例が知られ、いわゆる湯坐(ゆえ)、壬生(みぶ)にあたるのであろうが、他方、朝廷の舎人、膳夫の資養料として、雄略朝から崇峻(すしゅん)朝までの間に、白髪部舎人(しらがべのとねり)、膳夫、靭負(ゆげい)(白髪命(しらがのみこと)=清寧(せいねい)天皇)、他田(おさだ)舎人部、日奉部(ひまつりべ)(訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)=敏達(びだつ)天皇)など11例が知られ、これらは国造(くにのみやつこ)一族から朝廷に出仕した舎人などのトモ(伴)を資養するために、国造の治下に設けられた農民のベ(部)をいう。総じて前者は皇子女を養育する母方の氏族に伝領され、後者は朝廷の伴造の管理下に置かれたようである。6世紀末ごろから皇后、皇太子の地位が確立すると、その地位に付属し、特定の名を付されず、歴代の宮廷に伝領される、私部(きさきべ)、壬生部などが現れる。大化改新では御子入部(みこいりべ)、御名(みな)入部が廃されたが、子代・名代の廃止とみてよかろう。しかし、皇后、皇太子の料民の一部は、律令(りつりょう)制のもとでも湯沐(とうもく)または食封(じきふ)として存続した。
[平野邦雄]