台村(読み)だいむら

日本歴史地名大系 「台村」の解説

台村
だいむら

[現在地名]緑区台村町、あさひ上白根かみしらね

東は寺山てらやま村、南は白根村(現旭区)、西は久保くぼ村、北は恩田おんだ川を境に小山こやま村に接する。北部の恩田川沿いには平地があるが、中央から南は丘陵がちである。神奈川宿(現神奈川区)へ至る道が、北部を北西から南東へ向けて通る。

村名は正保国絵図に初めてみえる。元禄国絵図には「榎下村ノ枝郷」の注記があり、慶長九年(一六〇四)に分郷されたと伝える(風土記稿)。天正一九年(一五九一)に小田原北条氏の旧臣である旗本笠原領となる。

台村
だいむら

[現在地名]鎌倉市台・台一―五丁目

葛原くずはら岡から北方に連なり、さらに西北方に転ずる丘陵の北斜面一帯に位置し、西境を戸部とべ(柏尾川)が流れ、北は小袋谷こぶくろや村・大船おおふな村、東は山之内やまのうち村、南・西は山崎やまざき村、西は岡本おかもと村に接する。藤沢から鎌倉への道が村の北部を通過する。

宝徳二年(一四五〇)一二月日の北深沢郷年貢算用状案(県史三)に「壱町 長者作 分米肆斛弐斗 延米壱斛定白米八斗 節料早米台八人御百姓等沙汰」などとみえ、また「香蔵院珎祐記録」長禄四年(一四六〇)七月より閏九月条には、鶴岡供僧ら二一人の知行であった「北深沢郷内台・(洲)崎両村」代官を狩野五郎に預けるかどうかで供僧間に対立が起こったことが記され、この頃は北深沢きたふかさわ郷内であった。

台村
だいむら

[現在地名]菖蒲町台

ほし川左岸、三箇さんが村の南側に位置する。東側を備前びぜん堀が流下する。東側の河原井かわらい沼は台沼ともよばれ、享保一三年(一七二八)に開発されて七ヵ村持添新田と武助ぶすけ新田となった(見沼代用水沿革史)騎西きさい領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定されている(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)

台村
だいむら

[現在地名]日高市台・武蔵台むさしだい一―二丁目・同五丁目

久保くぼ村の東、高麗こま川右岸にあり、川沿いに東西に川越と秩父を結ぶ道が通る。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。田園簿では田一七石余・畑九七石余、幕府領。宝暦一二年(一七六二)三卿の清水領となり、寛政七年(一七九五)上知された。「風土記稿」成立時は幕府領で、文政七年(一八二四)清水領に復し、嘉永七年(一八五四)上知。旧高旧領取調帳では幕府領。

台村
うてなむら

[現在地名]大三島町台

現大三島町の中央部に位置する。南は野々江ののえ村、北は宮浦みやのうら村に接し、東は山を負い、西は海に臨んでいる。村の中央に台本川が流れ、河口の南側に台、その東側に山田やまだ、北側川向うにはそえ、台本川の上流の山あいに深山みやまの集落がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に台分として田方一五一石一斗が記載されている。当時の台は宮浦村に含まれて独立した村ではなかった。台が宮浦村から分郷したのは貞享二年(一六八五)である。

台村
だいむら

[現在地名]花巻市台

北・西・南の三方を奥羽山脈に囲まれ、東方のみが開けて平野部の北湯口きたゆぐち村・湯本ゆもと村・小瀬川こせがわ村などに接する。村内を流れる川の支流台川沿いに温泉が湧出する。室町―戦国期には稗貫氏に属した台氏の本拠地であったという。正保国絵図に村名がみえ、高七六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では本村は寺林てらばやし通に属し、蔵入高二一三石余、七ヵ年平均の免は四ツ一分八厘二毛、新田は八幡はちまん通に属し、蔵入高三石余、七ヵ年平均の免五分七厘。元禄十郡郷帳による〆高は田二〇〇石余・畑一一石余。「邦内郷村志」では蔵分一七四石余・給分三八石余、家数二五。

台村
だいむら

[現在地名]妻沼町台

利根川右岸の自然堤防上に位置し、対岸は小島こじま村、東は妻沼村、南は弥藤五やとうご村。用水は備前渠びぜんきよ用水を利用(風土記稿)。古代の武蔵路は当地から利根川を渡河し、上野国邑楽おうら郡へ至ったとみられる。当地はかつて存在した妻沼・沼の二つの沼の間にあった微高地で、小字として宅地やかちが残るが、平城京跡出土木簡に「武蔵国□□郡宅□駅」とあり、これを宅地駅と推定して利根川の渡河点にあった駅と考える説が出されている。田園簿によれば高四二四石余(田方一町一反余・畑方五二町余)、ほかに柳原柴野五反余があり、幕府領。天和元年(一六八一)下総古河藩領となり、貞享二年(一六八五)に上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)

台村
だいむら

[現在地名]君津市小櫃台おびつだい

山本やまもと村の南東、小櫃川の支流御腹おはら川の谷間に位置する。東は上総丘陵の稜線を越え万田野まんだの(現市原市)へ通じる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳には「台田村」(誤記か)とあり、高八九石。正保国絵図に台村とみえ、元禄郷帳では高九九石余。天保郷帳・旧高旧領取調帳では高一四六石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数二三。

台村
だいむら

[現在地名]君津市台一―二丁目・南久保みなみくぼ一丁目・同三丁目・久保くぼ一丁目

中野なかの村の東に位置し、南を小糸こいと川が西流する。文禄二年(一五九三)と考えられるが、台郷のうち四九石余が甲州御小人頭衆荻原領となった(「甲州御小人頭衆知行郷村書立」大野家文書)。同三年の上総国村高帳に村名がみえ、高四九石。寛永八年(一六三一)知行宛行状により当村の二石余が旗本川野(河野)領、一五石余が同志村領となった。享保二〇年(一七三五)の年貢皆済手形(坂本家文書)は八王子同心河野領のもので、年貢は米二六俵余(うち一俵は名主給米)

台村
だいむら

[現在地名]朝霞市台・根岸台ねぎしだい一―八丁目・栄町さかえちよう二丁目・同四丁目

新河岸川と黒目くろめ川の合流点の南岸にある。村域は根岸村と錯雑し、田畑・民家とも両村分が入交ざる。東は越戸こえど川を隔て上新倉かみにいくら(現和光市)新座にいくら野方のがた領に属した(風土記稿)。正保―元禄(一六四四―一七〇四)の間に根岸村から分村したらしく、元禄郷帳に村名がみえる。元禄八年・享保一六年(一七三一)・明和九年(一七七二)に検地が施行され、化政期には幕府領(風土記稿)。以後幕末まで変わらない。年貢米は根岸河岸から津出しを行い、川越街道膝折ひざおり宿の助郷を勤める。

台村
だいむら

[現在地名]日田市花月はなつき 秋原町あきばるまち

秋原村の北に位置する。北西部に(七〇六・八メートル)がそびえる。正保郷帳に村名がみえ、田高二五石余・畑高一三石余で、夜開やけ郷に属し、日損所とある。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免二ツ五分五厘で、永荒八石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高三二石余。慶応二年(一八六六)年貢皆済目録(財津家文書)では高四二石余で、本途物成米六石余・同大豆三石余(この銀五八八匁)、小物成定納銀五匁余・同不定納銀三匁余のほか、口米三斗余・口銀二分余・六尺給米八升余・伝馬宿入用銀七匁余・蔵前入用銀六匁余、さらに夫食代返納分銀三一匁があった。

台村
だいむら

[現在地名]光町台

小田部こだべ村の北西に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられ、在地領主としては千葉氏族の椎名氏が知られる。神代本千葉系図は岩室系椎名氏の一流に台氏を載せ、岩室資胤の孫に台十郎をあげている。要害ようがい屋敷やしき台城跡があり、隣接する宗竜そうりゆう寺には明徳三年(一三九二)・永享九年(一四三七)在銘の常総系板碑が残る。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に「小川台村」とみえるのは当村のこととみられ、佐倉藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高二九四石余、旗本坂井・大久保・秋田・矢部領の四給。

台村
だいむら

[現在地名]院内町台

恵良えら川とその支流あまり川の最上流部に挟まれた山間部に位置し、東は大坪おおつぼ村・おか村、北は田平たびら村・土岩屋つちいわや村。小倉藩元和人畜改帳では高六八石余、家数四・人数一三(うち百姓二・名子二)、牛二。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数三三(「人畜帳」庄家文書)

台村
だいむら

[現在地名]高遠町大字藤沢ふじさわ

藤沢川の中流右岸山麓の村。東は藤沢川が境、西は手良てら山が境、北は御堂垣外みどうがいと山が境となっている。

正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に「一高百弐拾弐石 台村」とあるのが初見である。

台の南に山城跡があり、その麓に昔武田氏の麾下の向山蔵人が居住し、後に民間に下り向山姓を名乗り土着して今日に及んでいると伝えられる。台村沢の上に八幡の社があり、「木の下蔭」(蕗原拾葉)には、「当村の氏神なり、古へ保科氏の鎮守といふ、又此辺を保科氏の邸跡ともいふ」とある。

台村
だいむら

[現在地名]谷和原村台

福岡ふくおか村の東に所在。福岡村より分村したという(新編常陸国誌)が、「寛文朱印留」に村名がみえ河内狭山藩北条氏領。享保三年(一七一八)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高六八九・五九四石。

台村
だいむら

[現在地名]北会津村和泉いずみ

北は和泉村、南は出尻いでずり村に接し、みや川の自然堤防上にあるための村名と思われる。「新編会津風土記」に「東北は和泉村の端村上和泉に続き、一村の如く」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に大村とあり、高四五石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高四六石余・新田高六石余、免七ツ一分六厘余、家数八・竈一一、男二一・女二〇、馬四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報