山本北山(読み)やまもとほくざん

精選版 日本国語大辞典 「山本北山」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐ほくざん【山本北山】

江戸中期の儒者。江戸の人。名は信有。字は天禧。通称喜六。闇斎学の山崎桃渓に師事した後は独学で、井上金峨にも接近。「孝経」を儒学古典の最上に置き、「作文志彀」「作詩志彀」などを著わして、古文辞派擬古主義を批判した。他に「孝経集覧」など。宝暦二~文化九年(一七五二‐一八一二

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デジタル大辞泉 「山本北山」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐ほくざん【山本北山】

[1752~1812]江戸後期の儒学者。江戸の人。名は信有。初め古文辞学を修めたが、のち井上金峨に師事し、折衷学提唱経学けいがく詩文にもすぐれた。著「孝経集説」「作詩志彀さくししこう」など。

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百科事典マイペディア 「山本北山」の意味・わかりやすい解説

山本北山【やまもとほくざん】

江戸中・後期の儒者。名は信有,通称喜六(きろく)。別号を孝経楼(こうきょうろう),奚疑翁(けいぎおう)など。江戸の御家人の子。博覧多識で,特に小学の研究に努力。詩文にも長じ,古文辞学派の詩文観を批判,清新を旨とした。また議論好み寛政(かんせい)異学の禁に反対して亀田鵬斎らとともに〈異学の五鬼〉の一人に数えられた。主著《孝経楼詩話》《孝経楼漫筆》《作詩志【こう】(しこう)》。
→関連項目井上金峨大田錦城明徳館梁川星巌

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改訂新版 世界大百科事典 「山本北山」の意味・わかりやすい解説

山本北山 (やまもとほくざん)
生没年:1752-1812(宝暦2-文化9)

江戸中期の儒者。折衷学派。名は信有,字は天禧,通称は喜六。北山のほか奚疑翁,孝経楼などとも号した。江戸の人。20~30歳代の著作《作文志彀(しこう)》《作詩志彀》で古文辞学の詩文観を批判し,清新性霊の説を唱えて漢詩文界に大きな影響を与えた。博学天文,兵学,医卜などにも通じた。〈寛政異学の禁〉では,異学の五鬼の一人に挙げられたが自説を曲げなかった。著作《孝経集説》《孝経楼漫筆》など。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本北山」の意味・わかりやすい解説

山本北山
やまもとほくざん
(1752―1812)

江戸後期の漢詩人。名は信有、字(あざな)は天禧(てんき)。江戸の人。28歳で『作文志彀(しこう)』1巻を、31歳で『作詩志彀』1巻を、56歳で『孝経樓詩話』2巻を著す。古文辞(こぶんじ)説を排撃し、明(みん)詩は唐詩を剽窃(ひょうせつ)した偽詩であり、『唐詩選』は偽書であり、宋詩(そうし)の清新は唐詩の真を得たものといい、詩は格律や神韻を主とすべきではなく、清新性霊を主とすべきであると主張し、文章は韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)を理想とした。文化(ぶんか)年間(1804~18)竹堤吟社(ちくていぎんしゃ)を主宰し、門下から大窪(おおくぼ)詩仏、梁川星巌(やながわせいがん)らを輩出し、天下の詩風を一変した。著書は前記のほか多方面に及ぶ。

[松下 忠]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本北山」の解説

山本北山 やまもと-ほくざん

1752-1812 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。山本緑陰の父。「孝経(こうきょう)」を信奉し,24歳で「孝経集覧」をあらわす。「作文志彀(しこう)」「作詩志彀」で古文辞学を批判し,文章は唐(中国)の韓愈(かんゆ)を理想とし,詩では清新さを重視した。寛政異学の禁に反対。弟子に梁川星巌(やながわ-せいがん)ら。文化9年5月18日死去。61歳。江戸出身。名は信有。字(あざな)は天禧(てんき)。通称は喜六。別号に孝経楼主人,奚疑塾主人など。
【格言など】およそ詩は,趣の深(ふこう)して,辞の清新ならんことを要せよ(「作詩志彀」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山本北山」の意味・わかりやすい解説

山本北山
やまもとほくざん

[生]宝暦2(1752).江戸
[没]文化9(1812).5.18.
江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は信有,字は天禧,通称は喜六。北山は号。井上金峨に学び,考証を重んじ,折衷学を提唱し,荻生徂徠らの古文辞学を排した。詩文にすぐれ,江戸詩文社団の盟主であった。寛政異学の禁に反対し,市川鶴鳴らとともに寛政五鬼と称された。門下に市村寛斎らがある。著書『孝経集説』『経義掫説』『作詩志かく』など。

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世界大百科事典(旧版)内の山本北山の言及

【市河寛斎】より

…昌平黌に学んでいた時分には,古文辞派の擬古主義の影響を強く受けて,その詩風の詩人としてすでに一家をなしていた。おりしも18世紀中ごろ以来全盛を誇っていた古文辞派がようやく勢力を失い,江戸では古文辞派を激しく批判する山本北山の詩論書《作詩志彀(しこう)》(1783)の出現を契機として,真情を重視する清新派という新しい詩風が起こってきた。寛斎も18世紀末に清新派に転じ,南宋の陸游や范成大を手本とする日常的な詩情に富んだ平明な詩風を主張して,たちまち新しい詩風の指導者となった。…

【袁宏道】より

…とはいえ彼が詩壇に吹きこんだ新風は,それなりの効果を次の世代に伝え,新たな革新の呼び水となった(竟陵派)。その影響は日本にも及び,元禄年間(1688‐1704),山本北山,元政上人らの心酔者は,これを借りて荻生徂徠一派の古文辞学を激しく批判した。【入矢 義高】。…

【漢詩文】より

…盛唐詩の光華雄渾な詩風への憧れには浪漫主義という文学的な意義があったのであるが,天明(1781‐89)ごろになると,古文辞派の擬古主義を否定して,もっと近世人の生活感情に即した詩情,表現を求める動きが詩壇に出てきた。理論面の代表者は山本北山で,擬古主義を模擬剽窃(ひようせつ)として激しく攻撃した。実作面を代表するのが,市河寛斎とその門人たち,大窪詩仏柏木如亭などであって,彼らは日常的な素材,詩情に富む宋詩の影響のもとに,近世人の生活感情を的確にとらえた新しい詩風を示した。…

※「山本北山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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