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近代日本資本主義の指導者。天保(てんぽう)11年2月13日、武蔵国(むさしのくに)榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘夷(じょうい)運動の志士であったが、1864年(元治1)一橋(ひとつばし)家に仕え、慶喜(よしのぶ)が将軍を継ぐとともに幕臣になった。1867年(慶応3)幕府の遣欧使節の一員として渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞した。1869年(明治2)新政府の招きで大蔵省官吏に登用され、井上馨(いのうえかおる)大蔵大輔(おおくらたいふ)のもとで、重要な貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与した。この間『立会略則(たちあいりゃくそく)』を著して株式会社制度に関する知識の普及に尽力した。1873年退官、同時に第一国立銀行(第一銀行の前身。のち第一勧業銀行を経てみずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編された)を創立して頭取に就任した。以後財界のリーダーとして目覚ましい活躍を示した。王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道などをはじめ創立に関与した会社は枚挙にいとまがない。また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも精力的に努めた。さらに財界の思想的指導者でもあり、実業家は国家目的に寄与するビジネスマンでなければならない(「経済道徳合一説」)ことを絶えず強調した。1915年(大正4)渋沢同族株式会社を設立し、第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成した。翌1916年実業界の第一線から引退し、以後は主として教育、社会、文化事業に力を注いだ。
[小早川洋一]
『『渋沢栄一自叙伝』(1937・偉人烈士伝編纂所)』▽『土屋喬雄著『日本資本主義の経営史的研究』(1954・みすず書房)』▽『渋沢栄一伝記資料編纂室編『渋沢栄一伝記資料』(1955~71・竜門社)』▽『森川英正著『渋沢栄一 日本株式会社の創立者』(森川英正編『日本の企業と国家』所収・1976・日本経済新聞社)』
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実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現,埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ,年少のころから家業に従事した。尊王攘夷論に傾倒し,一時は横浜の外国人居留地の襲撃をも計画した。1864年(元治1)一橋家に仕え,67年(慶応3)慶喜の弟昭武に随行してフランスの万国博使節団に加わり,ヨーロッパ各地を訪問して近代的社会経済の諸制度や産業施設を見聞した。このとき得た知識が,のち政府高官としてまた近代産業の指導者としての教養の基盤となった。69年(明治2)明治政府に招聘されて大蔵省に出仕,大蔵省租税司(現在の課長クラス)となり,税制の改正その他江戸時代以来の行政の改革にあたり,71年大蔵権大丞(局長級,事実上の次官)となったが,陸海軍費節約による均衡財政の主張が認められず井上馨とともに辞任。以来,野にあって革新的な近代企業の推進者としての役割を遂行する。73年第一国立銀行(のちの第一銀行)を創設し,近代的金融・信用制度の成立にあたる。ついで株式会社方式(合本主義といった)による近代企業の設立を精力的に推進した。また銀行家や実業家のための組織づくりにも尽力し,銀行集会所,手形交換所および東京商法会議所(現,東京商工会議所)などの創設にあたった。渋沢は,欧米の資本主義についての理論や思想をもたず,伝統的な儒教道徳の持主であったから,道徳・経済の合一主義をとなえ,近代企業は国家・公共のための実業でなければならないことを強調し,会社企業の生成を促進した。大正時代には,実業界から引退し,各種の社会・公共事業にひろく関係した。
→渋沢財閥
執筆者:由井 常彦
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(中村隆英)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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1840.2.13~1931.11.11
明治・大正期の実業家。武蔵国の豪農の家に生まれ,幕臣をへて明治政府に出仕。パリで学んだ知識をいかし,新貨条例・国立銀行条例など諸制度改革を行う。日本にはじめて合本組織(株式会社)を導入。民間経済界に入ったのちは道徳経済合一説を唱え,第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など500社の設立や商業会議所・銀行集会所などの経済界の組織作りに関与し,実業界の指導的役割をはたした。また社会・文化・教育の幅広い分野で社会公共事業に尽力した。国際関係では民間経済外交を積極的に展開し,日・米・中3国が協調できる枠組み作りに奔走した。日米関係委員会・日華実業協会・太平洋問題調査会などの中心的存在であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(2019-4-11)
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…日本最大の製紙会社。1873年渋沢栄一が三井組,小野組,島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことに始まる。最初は社名を〈抄紙会社〉と称し,資本金15万円。…
…渋沢栄一・敬三の経営支配下にあった事業群を渋沢財閥とよぶ。渋沢栄一は1873年大蔵省を退官し,第一国立銀行(のちの第一銀行)総監役に就任,ついで75年から1916年まで頭取を務めながら,日本資本主義の指導者かつ財界の世話役として,多数の近代産業企業の設立・育成に関与した。…
…国立銀行条例にもとづき,第一国立銀行として1873年(明治6)7月,資本金244万円余,渋沢栄一総監役(頭取)で設立された日本最初の銀行で,一般銀行業務のほか国立銀行紙幣を発行し官金出納事務取扱いもあわせ営んだ。とくに韓国においては,1909年10月韓国銀行設立まで中央銀行的役割を果たした。…
…多摩川に臨み,神奈川県に対する。1889年成立の調布村の一部であったが,大正時代に導入された田園都市運動の一環として,渋沢栄一が1918年に田園都市株式会社を設立,住宅地を造成した際に田園の2字を冠して田園調布とした。現在の東急東横線・目蒲線田園調布駅西口の駅前広場を中心に放射路,環状路を設置し,一区画100~500坪(330~1650m2)の上・下水道完備の高級住宅地として売り出された。…
…富岡の地が選ばれたのは優良な原料繭と豊富な水に恵まれていたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。尾高は全国から伝習工女を募集しフランス人教婦の下で器械繰糸技術を習得させ,彼女らは帰郷後各地の器械製糸場の発展を支えた。…
…65年にはメルメ・ド・カションに横浜フランス語学校を開かせ,67年のパリ万国博覧会には幕府に日本館を出させるとともに,将軍慶喜の弟,徳川昭武をフランスに留学させた。この時の随員,渋沢栄一はパリで近代商業を見聞し,のちに日本経済の大立者となった。
[近代]
明治維新でロッシュの親幕政策は破綻したが,日仏協力の路線は敷かれていた。…
※「渋沢栄一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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