原田三郎右衛門(読み)はらだ・さぶろうえもん

朝日日本歴史人物事典 「原田三郎右衛門」の解説

原田三郎右衛門

没年:元文5(1740)
生年:生年不詳
江戸中期,対馬での甘藷栽培,普及の功労者。対馬国(長崎県)上県郡仁田村久原の貧農の次男。薩摩(鹿児島県)から対馬に甘藷をもたらした人物として知られる。正徳5(1715)年,薩摩国に潜入して甘藷の栽培技術を習得。ひそかに芋種を対馬に持ち帰り,故郷久原で試植に成功した。さらに対馬藩に願い出て津柳村(上県郡峰町)に甘藷を移植。藩では甘藷を孝行芋と称してその栽培を奨励,ほどなく全島に普及をみた。その功により対馬藩では,妻子のない三郎右衛門に,甘藷の作人から孝行芋銭の取り立てを認め,この合力銀が,もっぱら彼の生計を支えた。<参考文献>『新対馬島誌』『長崎県史・藩政編』

(葉山禎作)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「原田三郎右衛門」の解説

原田三郎右衛門 はらだ-さぶろうえもん

?-1740 江戸時代中期の農民
対馬(つしま)(長崎県)の人。陶山鈍翁(すやま-どんおう)の感化をうける。正徳(しょうとく)5年(1715)ひそかに薩摩(さつま)からサツマイモ種芋をもちかえり,対馬府中藩にねがいでて全島にその栽培をひろめる。この功績により,耕作者から徴収された運上金を藩からあたえられ,孝行芋屋の屋号をゆるされた。元文5年8月死去。

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