日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘンデル」の意味・わかりやすい解説
ヘンデル
へんでる
Georg Friedrich Händel
(1685―1759)
バッハとともにドイツのバロック音楽を代表する作曲家。2月23日、中部ドイツ、ザーレ河畔のハレで生まれる。父はザクセン・ワイセンフェルス宮廷付外科医で、ヘンデルが音楽家になることに反対だったが、彼の優れたオルガン演奏を聴いたワイセンフェルス公アウグストに認められ、ハレの聖マリア教会オルガン奏者ツァハウのもとで学ぶことを許された。1702年ハレ大学法科に入学するが、同地でオルガン奏者としての仕事も始めており、そのころテレマンとの生涯に及ぶ交遊も始まっている。1703年ハンブルクに赴く。ゲンゼマルクト(鵞鳥(がちょう)市場)のオペラ劇場は、カイザーの指導下に隆盛を極めていたが、ヘンデルはバイオリン奏者、チェンバロ奏者として実地の経験を積んだのち『アルミーラ』(1705)などの作品を上演した。またこのころマッテゾンとも親交を結び、1703年にはともにリューベックのブクステフーデを訪れている。
おそらく1706年末、ヘンデルはイタリアに赴いた。彼の才能は、ローマに着くとすぐさまルスポリ侯爵家をはじめとする貴族たちに喜んで受け入れられた。1708年4月ルスポリ家におけるオラトリオ『復活』の上演には、コレッリの率いる45人の奏者が参加し、1500部の歌詞本が印刷されている。同年6~7月ヘンデルはナポリを訪れ、アルビート公のために劇的カンタータ『アーチとガラテアとポリフェーモ』を上演、1709年末からはベネチアでオペラ『アグリッピーナ』を27回も上演し、大成功を博している。イタリア時代、彼はコレッリやスカルラッティ父子とも親交を結び、音楽的にも大きな影響を受けた。
イタリアで名声をあげたヘンデルは、1710年ステッファニの後任としてハノーバー宮廷楽長に就任、ドイツに帰るが、その年のうちには休暇を得てロンドンに向かい、1711年クイーンズ・シアター上演のオペラ『リナルド』が大成功を収め、イギリスを活動の本拠とすることになる。こうして『忠実な羊飼い』(1712)、『テセオ』(1713)などのオペラが書かれた。
1714年8月、アン女王が世を去り、9月にはハノーバー選帝侯ゲオルク・ルートウィヒがイギリス王ジョージ1世として即位した。1717年7月17日、テムズ川での王の船遊びのために上演されたものが『水上の音楽』である。1719年、ヘイマーケットのキングズ劇場を本拠とするロイヤル音楽アカデミーというオペラ団体の設立で、ヘンデルの活動は新段階に入る。『オットーネ』(1723)、『ジュリアス・シーザー』(1724)をはじめ彼のオペラ創作の最盛期を迎えるのである。しかし1728年、ゲイの台本とペプシュの作曲による『乞食(こじき)オペラ』がリンカンズ・イン・フィールズ劇場で大成功を収めると、アカデミーは大打撃を受けることになる。『乞食オペラ』の内容はアカデミーのオペラを皮肉り、政治の腐敗や宮廷人を槍玉(やりだま)にあげた風刺的なもので、ヘンデルの音楽もパロディー化された。なお、すでに1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルは、1727年、ジョージ1世の死後即位したジョージ2世の戴冠(たいかん)式のために大規模な『戴冠式アンセム』を上演し深い感銘を与えている。彼はまた、ジョージ1世の死の直前の1727年2月20日、イギリス国籍を獲得している。
1729年アカデミーの再建が図られ、ヘンデルは歌手獲得のためにベネチアとローマに旅したが、帰路ハレに母を訪ねている。再建されたアカデミーで彼はオペラ『ポーロ』(1731)などで成功を収めたが、1733年にはふたたび新たな対抗団体が出現し、アカデミーは苦境に陥った。リンカンズ・イン・フィールズ劇場を本拠とする「貴族オペラ」という団体である。ヘンデルに対抗するこの団体の作曲家はボノンチーニとポルポラ、さらにのちにはハッセが音楽監督となった。
ヘンデルはこのころから本拠を新装なったコベント・ガーデン劇場に移し、『アルチーナ』(1735)などのオペラや『アレクサンダーの饗宴(きょうえん)』(1736)などのオラトリオの上演で対抗したが、結局両団体とも共倒れの悲哀をなめざるをえなかった。ただ、このころ、オラトリオの幕間にヘンデル自身の独奏によるオルガン協奏曲を演奏する習慣が定着し、人気を博した。
1737年4月、卒中に襲われ半身不随となったヘンデルは、温泉治療のためアーヘンで夏を過ごした。しかし奇跡の回復ののちロンドンに帰った彼は、12月にはキャロライン王妃の葬儀のための『葬送アンセム』上演で健在ぶりを示し、翌1738年、ハイデッガーが率いるキングズ劇場でオペラ『ファラモンド』『クセルクセス』を上演するが、いずれも不成功に終わった。こうした状況のもとに、ヘンデルの活動の重心はしだいにオラトリオの分野に移っていった。こうして1739年には『サウル』『エジプトのイスラエル人』『聖セシリアの日のための頌歌(しょうか)』などのオラトリオが初演されたが、成功には至らなかった。
ヘンデル起死回生の一作となったのがオラトリオ『メサイア』である。1741年8月にアイルランド総督の依頼を受け、わずか24日で完成されたこの作品は、翌1742年4月13日ダブリンで初演され大成功を収めた。これに勢いを得た彼は、『ベルシャザール』(1745)、『ユダス・マカベウス』(1748)などの名作オラトリオを上演し、おりから産業革命の結果形成されつつあったイギリスの中産階級の支持を受けることに成功した。またオーストリア継承戦争に勝利したイギリスが、アーヘンでの平和条約締結を祝う1749年4月27日の記念祝典に上演されたのが『王宮の花火の音楽』である。
1753年には白そこひ(白内障)のため完全に失明するが、以後も指揮やオルガン演奏に活躍し、1757年3月初演の最後のオラトリオ『時と真理の勝利』に至るまで口述で作曲も続けたが、1759年4月14日、ロンドンで惜しくも世を去り、遺言に基づいてウェストミンスター寺院に埋葬された。
[樋口隆一]
『渡部恵一郎著『ヘンデル』(1966・音楽之友社)』▽『S・サディー著、村原京子訳『ヘンデル』(1975・全音楽譜出版社)』