前田米蔵(読み)まえだよねぞう

改訂新版 世界大百科事典 「前田米蔵」の意味・わかりやすい解説

前田米蔵 (まえだよねぞう)
生没年:1882-1954(明治15-昭和29)

政治家和歌山県に生まれる。1902年東京法学院(現,中央大学)を卒業し弁護士となる。17年総選挙で東京より当選して政界に入り,以後当選10回。立憲政友会に属し,同党幹事長をへて田中義一内閣法制局長官犬養毅内閣商工大臣,広田弘毅内閣鉄道大臣,平沼騏一郎内閣鉄道大臣,小磯国昭内閣運輸通信大臣を歴任。37年2月総裁代行委員の一人となり,次期総裁に中島知久平を推して鳩山一郎抗争,分裂後は政友会中島派に属した。この間,近衛新党運動にも荷担新体制運動にも積極的となり,以後,大政翼賛会議会局長,翼賛政治体制協議会委員,翼賛政治会総務会長などを歴任,戦時議会運営の中心に位置した。第2次大戦後は公職追放されたが,追放解除後,52年の衆議院議員の総選挙では当選している。
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百科事典マイペディア 「前田米蔵」の意味・わかりやすい解説

前田米蔵【まえだよねぞう】

政治家。和歌山県生れ。東京法学院(現中央大学)卒後弁護士となる。1917年以来衆議院議員,立憲政友会所属。1927年田中義一内閣の法制局長官,のち諸大臣を歴任。1939年中島知久平を総裁に推し鳩山一郎と抗争,政友会分裂の立役者となった。大政翼賛会などで要職を占め,戦後公職追放,追放解除後,1952年の衆議院選挙で当選。
→関連項目翼賛議員同盟

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田米蔵」の意味・わかりやすい解説

前田米蔵
まえだよねぞう
(1882―1954)

政党政治家。和歌山県生まれ。中央大学卒業後、弁護士となる。1917年(大正6)衆議院議員初当選。政友会に属し、戦前は田中義一(ぎいち)内閣法制局長官、犬養毅(いぬかいつよし)内閣商相、広田弘毅(こうき)内閣鉄道相、平沼騏一郎(きいちろう)内閣鉄道相、小磯国昭(こいそくにあき)内閣運輸通信相などを歴任した。この間、政友会後継総裁問題では久原房之助(くはらふさのすけ)派に対抗して中島知久平(ちくへい)を擁立し党分裂を促進させ、自らは大政翼賛会、翼賛政治会、大日本政治会の要職につくなど、親軍派党人として中心的役割を果たした。敗戦後、日本進歩党結成に参加したが、公職追放を受ける。1952年(昭和27)衆議院議員に復帰したが振るわなかった。

[小田部雄次]

『有竹修二著『前田米蔵伝』(1961・同伝記刊行会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前田米蔵」の意味・わかりやすい解説

前田米蔵
まえだよねぞう

[生]1882.2.17. 和歌山
[没]1954.3.18. 東京
政治家。東京法学院卒業後,司法官試補を経て弁護士を開業。 1918年第 13回総選挙に立候補し当選,以来当選 10回。 27年田中義一内閣の法制局長官に就任し,その後犬養毅内閣の商工相,広田弘毅内閣の鉄道相,平沼騏一郎内閣の鉄道相,小磯国昭内閣の運輸通信相を歴任した。政友会の重鎮として総務,幹事長をつとめた。伝記に有竹修二『前田米蔵伝』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前田米蔵」の解説

前田米蔵 まえだ-よねぞう

1882-1954 大正-昭和時代の政治家。
明治15年2月17日生まれ。弁護士をへて,大正6年衆議院議員(当選10回)。政友会に属し,商工,鉄道,運輸通信の各大臣を歴任。この間新党運動をすすめて,政友会を分裂させ,昭和18年翼賛政治会の総務会長となる。戦後公職追放解除後,自由党から衆議院議員に当選。昭和29年3月18日死去。72歳。和歌山県出身。東京法学院(現中央大)卒。

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