精選版 日本国語大辞典 「中島知久平」の意味・読み・例文・類語
なかじま‐ちくへい【中島知久平】
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大正・昭和期の実業家、政治家。群馬県生まれ。海軍機関学校卒業。横須賀海軍工廠(こうしょう)内飛行機工場長を経て1917年(大正6)に大尉で退官。同年飛行機研究所創立。同所はのちに中島飛行機株式会社と改称し、戦時下に一大軍需会社として発展した。1930年(昭和5)より代議士。その資金力のために、所属する政友会の金袋ともいわれた。商工政務次官を経て第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の鉄道相。1938年以降鳩山一郎(はとやまいちろう)と党総裁の地位を争い、翌1939年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となる。その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相。A級戦犯に指定されたが1947年(昭和22)釈放。
[立松 潔]
『高橋泰隆著『中島知久平――軍人、飛行機王、大臣の三つの人生を生きた男』(2003・日本経済評論社)』▽『豊田穣著『飛行機王・中島知久平』(講談社文庫)』▽『渡部一英著『日本の飛行機王中島知久平――日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫)』
実業家,政治家。群馬県に生まれる。1907年海軍機関学校卒業。飛行機製造研究のため欧米に留学し,海軍航空技術研究委員をへて横須賀海軍工厰内飛行機工場長に就任する。17年大尉で退官し,日本最初の飛行機製造工場中島飛行機会社を設立。社業の拡大をはかる一方,30年総選挙に当選,以後当選5回。立憲政友会に属し,犬養毅内閣で商工政務次官となる。しだいに資金面で重きをなし,37年2月総裁代行委員の一人となり,鳩山一郎と次期総裁を争ったが,党内を二分するありさまとなり,39年4月分裂大会で総裁に就任(反対派は政友会久原房之助派)。この間,近衛新党運動にも加わり,第1次近衛文麿内閣に鉄道大臣として入閣。新体制運動には解党に積極的に荷担した。敗戦時の東久邇宮稔彦内閣の軍需大臣に就任。45年12月にはA級戦犯容疑者として逮捕されたが,起訴されずに47年に釈放された。
執筆者:古屋 哲夫
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(柴孝夫)
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… そして,各層の期待を担い,清新ムードのなかで登場した近衛文麿内閣の成立には政友会は好意的態度をとり,1937年7月日中戦争が勃発すると,党をあげて戦争遂行を支持し,翌38年議会の権能を大きく制約する国家総動員法案に対しても反対できなかった。37年に鈴木総裁が辞任して以後,政友会は中島知久平,前田米蔵,鳩山一郎,島田俊雄の4代行委員制の下で運営されたが,中島ら革新派が近衛の新党運動に接近したため党内対立は激化し,39年中島派が強引に中島を総裁に決定したため,鳩山派はこれに対抗して久原房之助を総裁に推し,ここに政友会は両派に分裂した。 これ以後,政友会は軍部の思惑や政府の政党操縦策のために翻弄されて動揺を続け,40年に入って近衛の新体制運動がおこると,久原派が7月16日に解党し,引き続き中島派が30日に解党することになり,政友会は40年に及ぶみずからの歴史に幕を下ろした。…
※「中島知久平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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