宮崎郡(読み)みやざきぐん

日本歴史地名大系 「宮崎郡」の解説

宮崎郡
みやざきぐん

面積:二一二・九五平方キロ
佐土原さどわら町・清武きよたけ町・田野たの

県の中央部東端の南寄りに位置し、宮崎市によって北部と南部に分断された郡。北部は一ッ瀬川・石崎いしざき川流域の日向灘に面した佐土原町、南部は清武川流域の沖積平野鰐塚わにつか山地などからなる清武町と田野町によって構成される。古代から中世にかけての郡域は判然としないが、中世の郡域は東は日向灘に面し、北東は那珂郡、西は諸県もろかた郡、南は大隅国に接していたとみられ、現在の宮崎市北西部、清武町・田野町、南那珂郡北郷きたごう町・南郷なんごう町、日南市・串間市の一帯と考えられる。近世初期以降の郡域はかなり狭域となり、北・東・南は那珂郡、西は諸県郡に接し、現在の宮崎市北西部と清武町・田野町の範囲となっていた。なお現佐土原町は明治一七年(一八八四)まで那珂郡に所属し、同年からの北那珂郡所属を経て、同二九年に宮崎郡所属となる。郡名の表記は「和名抄」諸本に「宮埼」とあり、「和名抄」名博本には「宮崎」と記される。同書東急本に「三也佐伎」の訓があり、「拾芥抄」もミヤサキとしている。郡名について、「日向旧跡見聞録」はこの地が皇孫降臨より神日本磐余彦天皇に至るまでの宮所であったことから宮崎というとする古老伝を紹介し、「太宰管内志」も同様の説をとる。

〔古代〕

現宮崎市の大淀川下流域から日南海岸沿いに現串間市に至る南北に長い郡域をもっていたとみられ、宮崎市域の大淀川下流の右岸に大淀古墳群、左岸にあおき古墳群、清武川河口右岸には木花きばな古墳群、日南市域の広渡ひろと川下流域に油津山上あぶらつさんじよう古墳・狐塚きつねづか古墳、串間市域の福島ふくしま川下流域には福島古墳群・銭亀塚ぜにがめづか古墳などがある。横穴墓としては大淀川河口北部のはすいけ横穴墓群などが知られる。古墳時代の集落跡は宮崎市の浄土江じようどえ遺跡(古墳―奈良時代)源藤げんどう遺跡(弥生末期―平安時代)、同市から清武町にかけての宮崎学園都市みやざきがくえんとし遺跡群などがある。「和名抄」には飫肥おび田辺たなべ嶋江しまえ江田えだの四郷が記される。神護景雲二年(七六八)七月一一日には、宮崎郡の大伴人益が赤眼の白亀を献上したところ、これが大瑞とされたため、この年日向国は庸を、瑞の出た宮崎郡は調庸を免除された(「続日本紀」同年九月一一日条)。「釈日本紀」巻六所引の「日向国風土記」逸文には宮崎郡高日村の地名語源説話がみえ、天から降臨した神が剣のたかひ(つか)をもってこの地に置いたことから剣柄たかひ村と称し、のち高日村に改めたというが、村の所在地は未詳。郡内の神社としては、江田神が承和四年(八三七)八月一日に官社に列せられ(続日本後紀)、天安二年(八五八)一〇月二二日には従五位上から従四位下に昇叙され(三代実録)、「延喜式」神名帳には宮崎郡一座の小社「江田エタノ神社」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報