会稽山(読み)カイケイザン(英語表記)Huì jī shān

デジタル大辞泉 「会稽山」の意味・読み・例文・類語

かいけい‐ざん〔クワイケイ‐〕【会稽山】

中国浙江せっこう省の紹興南方にある山。春秋時代、越王勾践こうせんが呉王夫差ふさに敗れた地。会稽。→会稽の恥

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精選版 日本国語大辞典 「会稽山」の意味・読み・例文・類語

かいけい‐ざん クヮイケイ‥【会稽山】

中国、浙江省紹興県の東南にある山。春秋時代、越王勾践(こうせん)呉王夫差(ふさ)に敗れて立てこもったところ。防山。棟山。茅山衡山。会稽。
扶桑集(995‐999頃)渤海裴大使到越州後、見寄長句、欣感之至、押以本韻〈大江朝綱〉「江郡浪晴沈藻思会稽山好称風情

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改訂新版 世界大百科事典 「会稽山」の意味・わかりやすい解説

会稽山 (かいけいざん)
Huì jī shān

中国,浙江省北部,紹興市の南東から南へつづく一連の山峰をいう。最高峰は南部の東白山(1195m)だが,北へゆくほど低くなり海岸平野へ埋没し島嶼状につづく。伝説によれば,禹が全国を巡視した時,最後にここに江南諸侯を会し,功績を評価して封爵を与えたという(苗山,茅山,防山などと称される)。会稽という名はこれによる。また秦の始皇帝も禹をまつって石碑を建てたという(秦望山という別称はこれによる)。この付近は古代の越国の中心で,杭州湾から江南全体を展望しうる会稽山はその象徴であった。秦・漢を通じても江南全体は会稽郡と呼ばれた。南朝梁の時,この山の北端の峰の麓に禹廟が作られ,今も紹興市の南東にあり名勝の一つとなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「会稽山」の意味・わかりやすい解説

会稽山
かいけいさん / ホイチーシャン

中国、浙江(せっこう/チョーチヤン)省中部にある山。紹興(しょうこう/シャオシン)市の南方に、北から南に連なる。もと防山、棟(とう)山、または茅(ぼう)山とよばれたが、夏(か)の禹王(うおう)がここに諸侯を集めその功績をたたえた故事によって、会稽山と改められたと伝えられる。春秋時代、越王(えつおう)勾践(こうせん)は呉王(ごおう)夫差(ふさ)に攻められてこの山にこもり、のち臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の苦労を積んで会稽の恥を雪(すす)いだことで有名である。

[酒井敏明]

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「会稽山」の解説

会稽山
(通称)
かいけいざん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
頼政会稽山
初演
享保8.11(江戸・森田座)

会稽山
かいけいざん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
文政9.7(大坂・大西芝居)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会稽山」の意味・わかりやすい解説

会稽山
かいけいざん

コイチー(会稽)山」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の会稽山の言及

【禹】より

…天下が安定すると,舜帝から禅譲を受け,禹は平陽に都を定めて夏王朝を開いた。禹の伝説には,塗山で妻をめとったり,会稽山に諸侯を集めたりしたなど,長江(揚子江)下流域に結びついたものが多いが,南北朝期の江南の道教のなかにも,道教化した禹の姿を見ることができる。【小南 一郎】。…

【句践】より

…父允常(いんじよう)以来隣国の呉とは宿敵の関係にあった。父の死後,句践が立って呉王闔閭(こうりよ)を破ると,闔閭の遺命をうけた子の夫差は,2年後に句践を会稽山に下して父の仇に報いた(前494)。許されて帰国した句践は,范蠡(はんれい)らとともに臥薪嘗胆(がしんしようたん)して会稽山の恥を忘れることなく力を養って20年,ついに前473年に呉を討ってこれを滅ぼした。…

※「会稽山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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