井田村(読み)いたむら

日本歴史地名大系 「井田村」の解説

井田村
いたむら

[現在地名]前原市井田・曾根そね

東端を川原かわばる川、中央を瑞梅寺ずいばいじ川が北流し、北は志摩しま波多江はたえ村、東は大門だいもん村、西は有田ありた村。中世は安楽寺(太宰府天満宮)領の井田庄が成立。「猪熊関白記」建仁元年(一二〇一)四月二七日条に「安楽寺領筑前国井田庄」とみえ、安楽寺別当定円が当庄などをめぐって兄菅原定賢(公貞)を訴え、定円が勝訴したと思われる。享徳三年(一四五四)安楽寺の祭礼で行われる田楽の際の酒代を賦課されている(同年八月日「安楽寺公文所下文」太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)。なお長治二年(一一〇五)三月一〇日の府老藤原延末田地売券(中村文書/平安遺文四)にみえる「字曾禰田」を当地の曾根に比定する説があり、延末は先祖相伝の私領田である同地四反などを字陰陽先生に売却している。

井田村
いだむら

[現在地名]温泉津町井田大字井田

福光林ふくみつはいし村の南東、江川支流の都治つち川中流域に位置する。

〔中世〕

大家おおえ西にし郷に含まれ、飯田とも記す。貞治元年(一三六二)一一月二日の足利義詮下文写(古証文)に「西郷内井田・津淵両村」とみえ、蒔田公継に与えられている。これ以前の領主は不詳だが、御神本系図(続群書類従)に大家庄西郷を領した福屋一族のうちに井田兼保がみえることから、井田氏であったと推測され、同氏が足利直冬方に付いたため義詮から所領を没収されたものであろう。明徳元年(一三九〇)一一月二日、井田村地頭職は大家庄東郷などとともに大家大郎左衛門尉公兼に安堵されている(「足利義満安堵御教書写」古証文)

井田村
いだむら

[現在地名]鹿島町井田

内浦街道に沿い、南は小竹おだけ村、西は東馬場ひがしばば村・最勝講さいすこ村。南側を熊野くまの川が西流し、東方に原山はらやま分がある。天正五年(一五七七)一一月の気多社免田指出案(気多大宮司家文書)に神官方の収納分として「いた村」より六俵とみえる。同八年鹿島半郡を織田信長より与えられた長連竜は、同年一一月一八日「伊田村」のうち白石分一四貫六〇〇文の地を家臣の小林小左衛門尉に(「長連竜宛行状案」小田吉之丈氏旧蔵文書)、翌九年八月一七日「井田中村」のうち斎藤新五郎知行方の米銭合せて四〇貫文分を笠松但馬守に与えている(「長連竜宛行状案」笠松文書)

井田村
いだむら

[現在地名]中原区井田・井田いだ三舞さんまい町・杉山すぎやま町・なかの町〉

西南に伊勢台いせだい山、東南に平台たいらだい山があり、山麓を矢上やがみ川が流れる。東は木月きづき村、南はこまはし(現横浜市港北区)、北は下小田中しもこだなか村、明津あくつ村・蟹谷かにがや(現高津区)に接する。りよう用水を下小田中村から分流する井田用水が水田一二町五反余を灌漑する(皇国地誌)。承安元年(一一七一)の武蔵国稲毛本庄検注目録(県史一)に「井田郷鎮守三段」とあり、稲毛いなげ庄の一部。

井田村
いだむら

[現在地名]岡崎市井田町

足助あすけ街道を北へ伊賀いが川を越えた井田坂の三差路にかつて道標があり、「善光寺道」「左大樹寺道」「右真福寺道」と記す。この道標は、現在泉竜せんりゆう寺本堂前にある。北は鴨田かもだ村に接し、真福しんぷく寺参詣道の岐点であり大樹寺だいじゆうじ村への分岐点となっていた。東のたき村より延びる丘陵の洪積地に広がる村落で西ははや川を境に日名ひな村、南は伊賀いが村。岡崎城下への北の門戸にあたる。

井田村
いだむら

[現在地名]八尾町井田

八尾町の北東方、井田川右岸にあり、飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。南北朝末より室町時代初期と推定される伊田保西猪谷村年貢目録(仁和寺文書)に伊田保とみえ、西猪谷にしいのたに片掛かたかけ蟹寺かんでら(現細入村)などの地を保内とするが、楡原にれはら保でみるとおり、この妥当性は検討を要する。寛永一八年(一六四一)頃の諸寺道場締役覚書(聞名寺文書)に「井田村西念」とあり、八尾聞名もんみよう寺の道場役として綿高二五匁・代銀四匁余を納めている。

井田村
いだむら

[現在地名]大方町伊田いだなだ佐賀さが白浜しらはま

有井川ありいがわ村の東方、北方くろから南流して土佐湾に注ぐ伊田川河口の平野を中心とする村で、入野いりの郷の一村。「土佐州郡志」は「伊田村」と記し、「東限佐賀村、西限有井川村、北限伊与木山、東西三十町南北三十町、戸凡四十、其ノ土赤黒、有川流」と記す。伊与木いよき山から南流した川が海に入る辺りは平野が開けるが、ノ岬から灘・白浜にかけては山が海に迫り、岩礁が続く。

井田村
いだむら

[現在地名]弥彦村井田

西にし川左岸の井田丘陵西麓にあり、北西に楊枝ようじ潟が広がる。大永七年(一五二七)八月二日の弥彦神社領検地日記(高橋文書)に「いた七十苅 四百文 さへもん四郎」とみえる。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ高二三八石七斗余。正保国絵図では高二四一石余、与板藩領に属する。元禄一五年(一七〇二)幕府領、享保九年(一七二四)から元文五年(一七四〇)まで新発田藩預所、幕末には与板藩領。

井田村
いたむら

[現在地名]戸田村井田

伊豆半島北西部の駿河湾に西面した村で、北は江梨えなし(現沼津市)、南は戸田村。古代那賀なか郡井田郷(和名抄)、中世井田庄の遺称地。

文禄三年(一五九四)八月代官頭彦坂元正による検地が行われた(「西浦井田郷検地帳」高田文書)。慶長(一五九六―一六一五)頃の内浦小物成帳写(豆州内浦漁民史料)によると、井田村の塩釜年貢は塩六三石八斗四升(ただし金代納)、鹿皮一〇枚(同上)、磯海苔三〇帖を納めている。

井田村
いだむら

[現在地名]夜久野町字井田

額田ぬかた村の東にある。南流するはた川がまき川に合流する辺り、牧川北岸の但馬街道に沿って発達した集落。中世は安国あんこく(現綾部市)今西いまにし村の地。

伝承によると天正七年(一五七九)明智光秀支配下では北接する今西村と一村であり、同一五年杉原七郎左衛門家次の所領の時、高五六九・四石と定まったという(井田村地税沿革誌)。同一七年今西村より分離、井田村は二六四・五三八石、今西村は三〇四・八六二石となったという(井田村古事記)。「丹波志」は「古今中村ナリ」とし、高三四一・四〇七石とする。

近世には額田村とともに丹波漆とよばれた当地方の漆の主産地で、寛政一〇年(一七九八)の井田氷上家文書に次のように記す。

井田村
いだむら

[現在地名]粉河町井田

紀ノ川の北岸に位置し、東西に走る大和街道沿いに集落があり、西北から来た淡島街道が集落中央で大和街道に合流する。北と西は粉河村に、東は東野ひがしの村、南は紀ノ川を挟んで安良見あらみ村に接する。文明七年(一四七五)六月二〇日付の悦谷池分水本帳書抜(王子神社文書)に「イタ」とみえる。中世は池田垣内いけだかいと(現那賀町)、東野とともに粉河寺領ひがし村に含まれ、井田が村名として現れるのは、王子神社名附帳(同文書)によると、慶長四年(一五九九)である。「続風土記」は「村の東に藤崎堰ノ口なるより井田の名出るなるへし」と記すが、藤崎井ふじさきい用水は元禄一三年(一七〇〇)の完成であるから、この説はあたらない。

井田村
いだむら

[現在地名]下関市大字井田

かつ山の北にある山間の小村。西は小野おの、東は員光かずみつ、北は内日上うついかみ阿内おうち、南は田倉たくらの各村と接する。長府藩領で東豊浦郡奥支配に属する。

古くは井田畑いだばたとよばれており、弘安五年(一二八二)四月の大蔵省下文(「閥閲録」所収小野貞右衛門家文書)に長門国員光保の内として「井田畑」とみえる。また建武三年(一三三六)一二月一日付文書(同文書)に「長門国豊西郡上津小野村内井太畑事」とあり、西隣の小野村に含まれていたことがわかる。

慶長一五年(一六一〇)検地帳に「伊田村」とあり小野村と合石記載される(→小野村

井田村
いだむら

[現在地名]海南市井田

且来あつそ村の南に位置し、その境にある汐見しおみ峠より日方ひかた川北岸までの、古代・中世の熊野街道に沿う南北に細長い村である。名草なくさ郡に属し、西は神田かんだ村、南および東は大野中おおのなか村に接する。建徳三年(一三七二)二月九日付の沙弥浄念畠田売渡状(禅林寺文書)に「井田西阿弥仏ニ売渡処実也」とみえる。また応永七年(一四〇〇)正月日付の三上庄大野郷御年貢帳(同文書)には井田村分として一六町三反一二〇歩の田地が記録されており、大野郷に属していたことが知られる。

慶長検地高目録によると村高一四六石余。日方組に属し、「続風土記」に家数三六、人数一一九とある。

井田村
いだむら

[現在地名]紀宝町井田

阿田和あたわ(現御浜町)の南、東は熊野灘に面し北西部は大烏帽子おおえぼし(三六二・一メートル)の山系が延びる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「井田村」とある。「紀伊続風土記」に「井田は藺田の義にて藺を作れる地より起れるなるへし」「天文六年の文書に井田荘司職といふ事見えたり」と記されている。中世は四箇しか庄の内であったと考えられる。新宮領で成川組に属する。近世後期の家数五四(紀州新宮領分見聞記)。宝永五年(一七〇八)の新田畑御改帳(徳川林政史蔵)には、屋敷も含め二二町余が記されている。

宇気津うけつ神社は、もと上森・下森に分れていた。

井田村
いだむら

[現在地名]尾張旭市井田町・三郷さんごう

瀬戸川せとがわ村の西にある。南境を矢田やだ川が流れている。寛文一一年(一六七一)の家数一四、男三八・女三三(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は五町五反九畝余、畑は五反余。

八反田はつたんだに井田城跡があった。八幡神社西方数百メートルに城山しろやまとよぶ高い畑地があり、周囲には水濠が残り弁才天が祀られていた。昭和五三年(一九七八)土地区画整理によって城跡は消滅したが、それに先立つ調査によれば、本丸跡は東西約六六メートル・南北約六七メートルのほぼ正方形で、東側には幅五メートル、高さ一・二メートルの土塁が約四〇メートルにわたって残存し、本丸の周囲にはV字形の幅三・六メートル、深さ〇・五―一メートルの堀があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報