天田郡(読み)あまたぐん

日本歴史地名大系 「天田郡」の解説

天田郡
あまたぐん

面積:一九一・八五平方キロ
三和みわ町・夜久野やくの

京都府丹波地区の北西部を占めたが、中央部が福知山市として割置されたため、現在は西北端の夜久野町と東南端の三和町のみである。

郡名は天平一九年(七四七)九月二六日付の勅旨(「東大寺要録」所収)に「丹波国天田郡五十戸」とみえるのが早く、「続日本紀」天平神護二年(七六六)七月二六日条には「散位従七位上昆解宮成得白鑞以献、言曰、是丹波国天田郡華浪山所出也」という記事がみえる。また「延喜式」(主税上)の「諸国運漕雑物功賃」の山陰道の個所に「丹波国駄別稲三束、但氷上、天田、何鹿三箇郡十束」と記される。

郡名の読みは「延喜式」武田本の神名帳に「アマタ」、「和名抄」刊本(郡部)に「安万多」と訓じている。

近代以前の郡域は、現天田郡二町および現福知山市から雲原くもばら印内いんない山野口やまのくち報恩寺ほおじ私市きさいちを除いた地域である。

〔原始〕

かつての天田郡のうち最も早く人が住み着いたのはどの辺りであったか明確でないが、土師はぜ川沿いの河岸段丘、福知山市字長田おさだ和田賀わだが遺跡から採取された削器は、先土器時代の所産といわれる。また福知山盆地西北部の奥野部おくのべ和久寺わくでらなどでは、縄文初期の有舌尖頭器が出土、早くからこの地方に人の住んだことが証されている。現天田郡域では夜久野菖蒲池しようぶいけの縄文晩期遺跡が古く、同平野ひらのには弥生中期―後期の遺跡がある。古墳は平野・小倉おぐら高内たかうちなどに多くみられ、また下夜久野にすえの地名があって一帯に四〇余の窯跡が確認されている。一方、三和町からは縄文・弥生時代の遺物出土の報告はなく、わずかに加用かようの丘陵端に古墳後期の須恵器片が散布するにすぎない。

〔古代〕

天平宝字二年(七五八)一一月丹波国は大嘗会の「由機国」とされるが(続日本紀)、以後たびたび悠紀および主基の斎田が設けられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報