邇摩郡(読み)にまぐん

日本歴史地名大系 「邇摩郡」の解説

邇摩郡
にまぐん

面積:一〇三・四四平方キロ
仁摩にま町・温泉津ゆのつ

県のほぼ中央北部に位置し、東は大田市、西は江津市、南は邑智おおち川本かわもと町・桜江さくらえ町、北は日本海に面する。中国山地が北に延びた地域で、郡域の大部分は丘陵性山地である。なお近世の邇摩郡は南は邑智郡、西は那賀郡と接し、現大田市・江津市の一部を含んでいた。

〔古代〕

平城京二条大路跡出土木簡に「石見国迩摩」とみえる。天平宝字六年(七六二)のものとみられる造東大寺司解案(正倉院文書)に「土師嶋足石見国尓麻郡都智郷戸主土師当麻戸口」とみえる。「三代実録」元慶八年(八八四)六月二三日条によれば、邇摩郡大領外従八位上の伊福部真人安道らが部内の百姓を率いて石見国権守上毛野氏永館を包囲し、国印などを奪い、国衙の他の役人に与える事件が起こった。安道は那賀郡大領久米岑雄らと百姓二一七人とともに国司の政治を糾弾して蜂起したものだったが、仁和二年(八八六)五月、安道は徒二年・贖銅一〇斤、岑雄は贖銅九斤の罰を受け、ほかに与同の延暦寺僧一道らも徒一年ほかの刑に処されている(同書同年五月一二日条)

和名抄」には邇摩郡のうちに託農たくの大国おおぐに湯泉津道つち大家おおえ都治つちの六ヵ郷を載せるが、津道と都治は重複と思われる。郡家は現仁摩仁万にま周辺にあったと推定され、石見国府の旧所在地とする説もある。「延喜式」神名帳には「迩摩郡小五座」として城上神社(現大田市大森町大森の同名社に比定)、山辺八代姫命神社(現同市久利町久利の同名社に比定)霹靂神社(現温泉津町湯里大字湯里の同名社に比定)、水上神社(現同町湯里大字西田の同名社に比定)、国分寺霹靂神社(現仁摩町仁万の同名社、あるいは現大田市五十猛町の五十猛神社に合祀された神社に比定)が載る。このうち国分寺霹靂神社については現浜田国分こくぶ町の同名社に比定する説もあり、那賀郡所在の誤記とも考えられている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる山陰道の託農駅は現仁摩町宅野たくの町、樟道くすち駅は温泉津町福光ふくみつに比定する説がある。邇摩郡の駅馬は五疋と定められていた。なお仁摩町仁万に古代条里遺構が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報