五明村(読み)ごみようむら

日本歴史地名大系 「五明村」の解説

五明村
ごみようむら

[現在地名]玉川村五明

玉川郷・田黒たぐろ村の西にあり、二つの尾根の間を流れる都幾とき川支流のすずめ川流域を占める。田園簿によれば田高一一七石余・畑高一二九石余、ほかに紙舟役永七五〇文が課せられ、幕府領元禄郷帳では高三〇四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領、ほかに地内円通えんつう寺領がある。「風土記稿」成立時には三卿の一、清水領。その後幕府領となった(「郡村誌」など)。本検地は寛文八年(一六六八)に、新田検地は寛政六年(一七九四)に行われている。

五明村
ごみようむら

[現在地名]掛川市五明

倉真くらみ川の右岸にあり、東は上西郷かみさいごう村。初め五名村と記し、松浦・山本・佐藤・小沢・中村の五家が開墾した地で、慶長九年(一六〇四)検地の頃には上中下の三組だったのが、のち二組となり、さらに一組となった(掛川誌稿)。文禄二年検地高目録に「五名村」とみえ、高三三五石余。慶長九年八月の五名村検地水帳写(静岡大学人文学部日本史研究室蔵)が残る。

五明村
ごみようむら

[現在地名]三条市五明・南四日みなみよつか町三―四丁目・東本成寺ひがしほんじようじ

なか村の東、平野部に位置し、北は四日町よつかまち村、東は片口かたくち村。集落は今井野いまいの新田(現南蒲原郡栄町)東端から片口村へと東西に延びていた土居(堤)の北側に位置し、田畑は片口村近くまで広がっていた寺領本成寺村(西本成寺村)の田方を分断する形で存在した。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、同一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)に「五名村」として毛付八八石六斗余・荒四一石三斗余が記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によると炉役二斗五升が二軒に課されている。

五明村
ごみようむら

[現在地名]坂城町大字村上むらかみ 上五明

千曲川左岸の沖積地上に立地。網掛あみかけ村の北、西は上平うわだいら村。

文禄元年(一五九二)六月、上杉景勝が平田輔範に宛行った地に「五妙村」とあるのを初見とする(覚上公御代御書集)。慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳に「五百四拾一石八斗九升二合 五明村」とある。

村の西北、油屋あぶらや辺りより岩井堂いわいどう狼煙台山の東麓一帯の地を油屋古戦場といっている。天正一〇年(一五八二)七月一六日、上杉景勝が北条氏直を追撃した所と伝えられている。

寛永三年(一六二六)の真田信之家臣連署状(海野文書)には「五百仁拾九石一斗七升三石上ノ五明」とあり、寛文四年(一六六四)の信濃国川中島松城領高辻帳にも「上五明村」と記されるが、近世を通じておおむね「五明村」と記す。

五明村
ごみようむら

[現在地名]加茂川町高富たかとみ

小森こもり村の南に位置し、集落は山上にある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高五五一石余。寛永七年(一六三〇)の検地高は七九石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によれば田畠七町五反余、家数二一・人数一一四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高八七石余は家臣上坂氏給地。高五五一石余、四八九石余が万引高で残高六一石余。田方二町九反余・三七石余、畑方五町余・二三石余、家数二九・人数一一四、牛一三、池一二、堰五、給人林六町六反余、百姓自林二町一反余、猟師鉄砲四。

五明村
ごみようむら

[現在地名]上里町五明

長浜下郷ながはましもごう村の北東に位置し、西は神流かんな川を挟んで上野国緑野みどの下戸塚しもとづか(現群馬県藤岡市)。田園簿では田方三五二石余・畑方三四〇石余、旗本日向領。国立史料館本元禄郷帳では旗本堀家など七家の相給。「風土記稿」成立時は川越藩領で家数一二五、用水は楠川堰組合と長浜村内の流れを使用。

五明村
ごみようむら

[現在地名]江南市五明

小折こおり村の西にあり、村の東境を青木あおき川が流れ、西岸人家が集中していた(天保村絵図)。「徇行記」によれば、概高四二一石余で三九六石余が蔵入地。田六反一畝余・畑三五町八反九畝余、新田二一石五斗余。享保一一年(一七二六)縄入の午新田一九石一斗余。ほかに小折村久昌きゆうしよう寺領元高一七一石余。「本郷・寺領共ニ一村立ノ所」で、他村より越高が二〇〇石ほどあった。

五明村
ごみようむら

[現在地名]岡山市西大寺五明さいだいじごみよう

はま村の南東千町せんちよう平野南部の丘陵北西麓に位置し、麓を千町川が西へ流れる。同丘陵を越えて南は神崎かんざき村。元和―寛永期(一六一五―四四)の邑久郡物成秤帳によれば、元和七年の物成高三〇五石余。寛永備前国絵図では高五六一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報