埴科郡(読み)はにしなぐん

日本歴史地名大系 「埴科郡」の解説

埴科郡
はにしなぐん

面積:七八・八一平方キロ
坂城さかき町・戸倉とぐら

上田市と更埴こうしよく市の中間にある。南は上田市境界に連なる太郎たろう山・虚空蔵こくぞう山によって接し、東は大峰おおみね山・鏡台きようだい山で小県ちいさがた真田さなだ町に接し、西は三ッ頭みつかしら山と大林おおばやし山で上田市と接し、冠着かむりき山で東筑摩ひがしちくま坂井さかい村と境界をなす。郡の中央には、千曲川が上田市より流下し北信地方へ展開する。当郡は東西の山地に囲まれ、形成される盆地が坂城町と戸倉町の生活の地域。千曲川の支流には、坂城町で川・御堂みどう川・日名沢ひなざわ川が東部山地より、西部からは坂城町の福沢ふくざわ川があり、戸倉町で羽尾はねお川が流入する。

「延喜式」に「埴科郡」とあり、「和名抄」では「波爾志奈」と訓じ、坂城・磯部・船山・屋代・大穴・倉科・英多の七郷を載せるが、現在坂城・磯部のほかは更埴市・長野市に属する。埴科郡の範囲は古代では昭和二八年(一九五三)の町村合併前の埴科郡にほぼ比定される。郡名の初見は「万葉集」防人歌で、主帳埴科郡神人部子忍男の歌として

<資料は省略されています>

とあり、奈良時代に埴科郡が成立していたことは明確である。

〔原始〕

坂城町の込山こみやま遺跡・寺沢てらさわ遺跡・保地ぼじ遺跡では縄文中期の土器や遺物が発見され、南条みなみじよう(現坂城町)の千曲川沿岸からは弥生土器が出土する。中之条なかのじよう(現坂城町)の東山麓には古墳時代後期の古墳群があり、集落付近では土師・須恵器の遺跡がある。坂城町の千曲川西と戸倉町の東部にも数基の古墳が残る。戸倉町の更級さらしな地区山麓には縄文遺跡があり、千曲川沿岸からは弥生土器・土師土器が出土する。

〔古代〕

貞観年間(八五九―八七七)には「三代実録」によれば信濃国所在とある出速雄神・会津比売神は、それぞれ授位されているが、伝承ではそれを埴科郡の皆神みなかみ山、岩野いわのの地に比定している。貞観四年三月二〇日に埴科郡大領金刺舎人正長に外従五位が授位され、貞観八年二月二日には、埴科郡屋代寺が定額寺に定められている(三代実録)。また「延喜式」には、「埴科郡五座」として「粟狭神社」「坂城神社」「中村神社」「玉依比売命神社」「祝神社」が記される。七郷が成立し、五社があり、屋代に定額寺があり、大領金刺氏の郡衙も屋代付近にあったという定説から、この郡の古代初期の発展が察せられる。

平安後期に武士が勃興すると、村上氏の活躍が目立つ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報