久保田村(読み)くぼたむら

日本歴史地名大系 「久保田村」の解説

久保田村
くぼたむら

[現在地名]幸田町久保田

東は山地で桑谷くわがい(現岡崎市)と接し、南は大草おおくさ村、北は長嶺ながみね村と山地および耕地で接する。西のみ耕地で坂崎さかざき村および大草村の一部と接する。後期古墳が点在し、室町期の窯跡もある。中世、坂崎郷に属した。近世初頭に尾張藩の藩政を執行した平岩親吉家の系図では、親吉より四代前の重氏より当村内居住を伝えている。平山家系図によると字平岩ひらいわに関する伝承に「額田郡坂崎郷窪田之山麓有一大岩、岩面平可坐亦有自然之目、重氏館在其傍故、土人呼之称平岩殿」とある。また平岩氏は従来弓削姓を称したが、後に改姓したことを記している。永禄六年(一五六三)三河一向一揆の際に土呂とろ(現岡崎市)善秀ぜんしゆう寺側に荷担した当村出身者として大橋左馬助・同伝十郎の名がある(三河物語)

久保田村
くぼたむら

[現在地名]郡山市富久山町ふくやままち久保田くぼた向河原むかいがわら

逢瀬おうせ川が阿武隈川に合流する地の北西岸平地に立地。南は郡山村。奥州道中が通り、村境で三春みはる(現三春町)への道が分岐する。もとの集落は二、三町ほど東の古町ふるまち(現字南田)にあったが、延宝(一六七三―八一)頃奥州道中沿いに移されたという(積達大概録)。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「窪田 修理亮祐守」がみえる。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に、中郷のうちとして「窪田七丁」とみえる。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]吉見町久保田・久保田新田くぼたしんでん

江綱えつな村の北にあり、北は下細谷しもほそや村。集落は旧荒川筋の自然堤防上に発達している。本村の東方に離れて、荒川右岸沿いには寛文八年(一六六八)に高入れされた持添新田(久保田新田)があった(風土記稿)。古くは窪田とも記した。正中三年(一三二六)から明応元年(一四九二)までの九基の板碑がある。「水谷蟠竜記」によると天文八年(一五三九)の大串合戦で常陸の水谷正村(蟠竜)は陣所とした当地阿弥陀堂の鐘を初陣の戦利品として持帰ったという。のちに下野芳全ほうぜん(現栃木県二宮町)に納められたこの鐘には建武三年(一三三六)四月九日の年紀と「武州吉見郡大串郷窪田村 阿弥陀堂鐘一口」「大工金(刺カ)景弘 大檀那沙弥妙忍并女大施主平氏女」などの銘があった(水戸彰考館本「古今鐘銘集」)

久保田村
くぼたむら

[現在地名]松山市久保田町くぼたまち

松山平野の西平坦部に位置する農村。東は富久とみひさ村、西は南吉田みなみよしだ村、南は余戸ようご村・垣生はぶ村、北は高岡たかおか村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「窪田村 日損所」とある。天保郷帳には久保田村と書かれている。

古代には温泉郡埴生はにゆう(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の家臣垣生氏の統治下にあった。近世に入り加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)松平氏による松山藩領となった。石手いして川の分流である佐古さこ川および立淵たてぶち川が富久村から流れ込み、村を横断して西の南吉田村に流入する。溜池には相生あいおい(周囲八九メートル)がある。

垣之内かきのうち沓脱くつぬぎ天満宮がある。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]結城市久保田

小森こもり村東南に位置。鬼怒きぬ川が南流し、北を流れてきた川が合流している。

享禄元年(一五二八)八月および一〇月の結城政朝所領宛行状(ともに中里文書)に「くほた郷之内おしま分之内三貫九百文」「くほ田郷之内ほり中はやと分弐貫百五十文」がみえ、天正二〇年(一五九二)二月の結城秀康宛行状(奈良文書)には「結城領内知行分事 合七拾石者 中村窪田内」とあり、古くから結城氏の領地であった。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]袖ケ浦市久保田・長浦駅前ながうらえきまえ久保田代入会地くぼただいいりあいち

蔵波くらなみ村の北東に位置し、西は江戸湾に臨み、海岸沿いを房総往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六一四石。宝暦期(一七五一―六四)には旗本黒川・高尾・朝比奈の三家領(吉田家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では幕府領と旗本黒川・高尾の二家領、旧高旧領取調帳では幕府領の代りに旗本平岡領。元禄郷帳では高四六七石余と減少しているが、文禄三年の上総国村高帳では隣村代宿だいじゆく村分が含まれていたためと考えられる。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]中条町西条にしじよう

胎内たいない川左岸微高地にあり、東北は一七ヵ村入会の河原と西条村、南・西は本郷ほんごう村に接する。寛文一三年(一六七三)の村上領高辻帳(大滝新蔵氏蔵)に「窪田村」とある。元禄郷帳には「中条村枝郷」として記される。はじめ村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)以降幕府領、幕末には会津藩領。万治二年(一六五九)の検地高一〇七石一斗余(明治三年「黒川藩引渡郷村帳」高橋亀司郎氏蔵)。天保九年(一八三八)の巡見使案内帳(大沼安在氏蔵)によれば本田六町六反九畝・本畑三町一反八畝余・新田畑三反五畝余。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]春野町宮川みやがわ

高瀬たかせ村の北、南流する気田けた川の中流右岸に位置し、秋葉山山頂北側から東山麓へ下った所にある。村名は窪田とも記される(正保郷帳)。江戸時代は幕府領。享保一五年(一七三〇)から元文四年(一七三九)まで掛川藩預所(「春野町史」など)正保郷帳では永一八貫文、うち秋葉寺領二〇〇文・瑞林寺領五〇文・天王領五〇文。柴山草雑木と注記される。元禄郷帳では高七〇石余。正徳三年(一七一三)まで平木ひらき村に本拠をもつ土豪和田氏が在地手代(大庄屋)として直接支配に当たり、そのもとで当村には三人の庄屋がいたが、正徳元年以後は隔年の年番制に変更している(「久保田村庄屋隔年勤役申渡につき請書」児玉家文書)

久保田村
くぼたむら

[現在地名]四日市市久保田一―二丁目

伊倉いぐら村の東、三滝みたき川の南岸に位置し、対岸は野田のだ村。「五鈴遺響」は「古昔ノ東海道ニシテ朝明郡東富田ヨリコヽニ到ル」とするが典拠は不明。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳には「(百)貫文 三重く保田の郷 相違 林与助」とあって、この年以前は林氏が知行していたことが知られる。江戸時代は初め津藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では、田方二三一・二七五石に対し、畑方は二〇・八六八石と著しく少ない。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]酒田市久保田

新井田にいだ川中流右岸に位置し、上流北東方はせき村。窪田村とも記した。永正年間(一五〇四―二一)藤原光永・藤原経基・佐藤某らが丹波国から移住して開村したと伝える。天正一六年(一五八八)最上義光の臣東海林兄弟が朝日山あさひやま城に立籠ったとき、久保田などの在所が残らず付き従ったという(出羽国風土略記)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一四七石余。寛永元年庄内高辻帳の高は二一六石余。享和三年(一八〇三)の家数一一・人数六九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

久保田村
くぼたむら

[現在地名]松阪市久保田町

坂内さかない川が近世の松坂町を貫流したところの左岸にある。北は新松しんまつしま村、南は西之庄にしのしよう村に接し、東は荒木あらき村、西は大塚おおつか村に境する。近世は和歌山藩松坂領。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)によれば産物は穀類。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]岩室村久保田

西方を川が北へ流れ、北西は石瀬いしぜ村、南はさる村。慶安三年(一六五〇)頃までに開発され、元禄郷帳に舟越ふなこし村枝郷として村名がみえ、高七八石一斗余。

久保田村
くぼたむら

[現在地名]鹿角市花輪はなわ 久保田

米代川右岸に位置し、東は花輪村。近世初期の「鹿角郡由来記」高瀬たかせ村の項に「高瀬土佐領知 本名秋元 館有 知行村数久保田 用之目」とあり、中世後期に成立していたことはほぼ明白である。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」では花輪村の項に「廿九軒久保田」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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