額田郡(読み)ぬかたぐん

日本歴史地名大系 「額田郡」の解説

額田郡
ぬかたぐん

面積:二一五・九一平方キロ
幸田こうた町・額田ぬかた

額田郡の旧郡域は、現在の額田町全域、幸田町域の東海道本線の東側全域、岡崎市では矢作川右岸旧碧海へきかい郡矢作町と矢作川左岸旧碧海郡町を除いた地域、および東加茂郡下山しもやま村南部が該当する。岡崎市によって旧額田郡が分断された結果、飛地的に東部の額田町と南部の幸田町に分れて額田郡が構成されている。おおむね西三河に属するが、額田町側では東部と南部、幸田町側では東南部が東三河に接する。

額田町域全体が三河高原と称される山間地域であるが、幸田町域は旧菱池ひしいけ沼辺りが低地、周辺は台地で、西三河平野の最南端に属する。河川は額田町域内に水源をもつともえ山水系のおと川と、本宮ほんぐう山水系のおと川がある。幸田町域には小河川が多かったが、明治一六年(一八八三)相見あいみ川開削工事で統合されて、広田こうた川に接続し、菱池沼の干拓が実施されている。

額田の名称の起源は諸説あるが、天津彦根命の後裔額田部湯坐連の子柱津連が当郡に住し、額田郡造の祖となったと伝える。この額田郡造は、額田町柿平の夏山かきひらのなつやま八幡宮の社伝によると、夏山郷の地に在住したという。

〔原始〕

額田町・幸田町地域では先史遺跡の遺物の発見はあるものの、遺跡はまれである。古墳の分布は幸田町坂崎の青塚さかざきのあおづか古墳が前方後円墳。円墳の後期古墳は、坂崎から大草おおくさにかけての菱池沼東部丘陵地に群としてまとまっている。額田町域での古墳の確認報告は少ない。

〔古代〕

平城宮出土木簡の「参河国(額カ)多郡鴨田郷厚石里」「参河国額田郡謂我郷 白米五斗」「参河国額田郡新木郷丸五月」の三点から鴨田郷・謂我郷・新木郷の三郷が判明する。また正倉院丹裏古文書にある「参河国額田郡麻津郷」「参河国額田(ママ)山綱駅家」の二点から麻津郷と山綱駅家郷が判明する。山綱やまつなは伊場木簡三〇号に「□駅家・宮地駅家 山豆奈駅家 鳥取駅家」として「山豆奈」と記している。

和名抄」に載る額田郡八郷は新城・鴨田・位賀・額田・麻津・六石・大野・駅家である。このうち額田町域に額田郷、幸田町域の一部に麻津郷が比定されている。また「延喜式」神名帳に記される額田郡内の神社に稲熊いなぐま(現岡崎市)稲前いなさき神社と東阿知和ひがしあちわ(現岡崎市)謁播あつわ神社の二社がある。古代寺院とされる高隆こうりゆう寺・真福しんぷく寺・滝山たきさん寺・出生しゆつしよう(法蔵寺)丸山廃寺の岡崎市域所在寺院以外には額田町域に桜井さくらい寺がある。これらの寺院の所在地は、法蔵ほうぞう寺以外はすべて山間部にあり、山岳仏教の影響を伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報