中間町(読み)なかままち

日本歴史地名大系 「中間町」の解説

中間町
なかままち

[現在地名]博多区中呉服町なかごふくまち綱場町つなばまち

綱場町の東、唐津街道に沿う両側町。西は中石堂町に続く(福岡博多近隣古図)。永禄二年(一五五九)一〇月書写の高木分坪付帳(田村文書/筥崎宮史料)に筥崎宮領のうち高木分の「石堂」半反と「畠地春ハ田也」の耕作人として「中間 宗作下人作之」とみえる。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)に「中間」とみえる。元禄三年(一六九〇)の家数二五(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数二五・間数六二間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数三九(博多店運上帳)。元禄五年当町の帯屋善兵衛は辻堂作出つじのどうつくりで町に表口四間余・入り九間余の家屋敷を所持していた。同一四年泉州さかい(現大阪府堺市)の米問屋帯屋六兵衛は、当町の川淵善太郎ら五名が一〇ヵ年以前より金銀を受取りながら米を送ってこないため商売が成立たず、請負銀の返済を求めて訴えた。幕府評定所から理を認められた六兵衛は裏書証文を手に博多に来て皆済されている。

中間町
ちゆうげんまち

[現在地名]米沢市まつさき三丁目

割出わりだし町の北にある中級家臣屋敷町。東西の道に沿う両側町。西は五十騎ごじつき町の千坂家屋敷、北は堀立ほつたて川・笹岡ささおか町に接する。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ一町三〇間・道幅四間・屋敷数一六。

中間町
ちゆうげんまち

[現在地名]村上市仲間ちゆうげん

臥牛がぎゆう(村上城)の東山麓にあり、北方門前もんぜん川が西へ流れる。東は興屋こうや村、西は村上町に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「小国但馬分中間町」とみえ、「八斗壱升」「家合壱間」と記される。西方村上城との間は堀川で区切られ木橋が架かる。また東方には「小国但馬分堂うミつ村」が描かれ本納一七石六斗八升・縄高一五石六斗三升一合、家七軒とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android